ハニーチ

スロウ・エール 230



さん、かわいい。


日向くんからだ。

ちゃんと聞こえた。

この近さ、聞き間違えてない。


日向くんが身じろぎすると、日向くんの髪が頬を掠めた。

密かに早まる胸の鼓動、コートまで着込んでいる今はこんなにそばでも隠し通せる気がした。
いや、顔が赤くなってそう。

赤らんでいるだろうほっぺたを心配したのも束の間、日向くんが勢いよく身体を離し、今度は私の両腕にそれぞれ手を添えたまま向き合う形になった。

顔なんて隠せる余裕はなかった。



さんっ」

「は、はい」

、さん……」


1回目は目を合わせ、2回目はがくりと項垂れて日向くんは私を呼んだ。

かわいい。

そう呟いたかと思うと、日向くんは私から手を離し、両手をコートのポケットに乱雑に突っ込んだ。


「ごめん、いきなり、こんなところ連れてきて」

「日向くん」


一段と明るいメインフロアーに戻ろうとする日向くんの袖を掴んだ。

日向くんが足をとめて、こっちを見た。


「あ、謝んないで」


謝る理由がない。

重ねた言葉に、日向くんは唇をぎゅっと結んでポケットにしまっていた手を取り出し、柔らかな声色で応えた。

そうだよなって。


「ほんとはさ」


日向くんは視線を泳がせて続けた。


「学校なら走ってくるんだけど、ここだとできないし」

「いいよ、走ってきて」

さんがよくても、おれが……さんを一人にしたくない」

「ちゃんと待ってられるよ」

「そうじゃなくて、おれが……、もっと一緒にいたいから、少しでも、長く」


それなのに、日向くんは、袖をつかむ私の手をやんわりと外させた。


「行こう、まだ、ストラップ見つけてない」

「手は?」


片手を差し出した。

日向くんのコートを掴んで、離された、行き場のない手のひら。

今はなんにも掴んでない。


「今日、繋いでようって、さっき」

「い、今はちょっと」


日向くんはばつが悪そうに顔を背けて少しだけ歩き出した。

ポケットに両方の手をしまって。


「ほら、ここっ、暖房効いてるし……、へっ!」

「いいよ、行こう」

さんっ、ちょっ、たんまっ。 待って、待ったっ、本当にまって!!」


中途半端な位置で立ち止まる私たちの前を、この建物で働いているんだろう、仕事着の人が一瞥もせず通り過ぎていった。
荷台を押すのに余念がないらしい。

小休止するには十分なきっかけで、だけど、私は決して気を変えようとはしなかった。

日向くんの腕を、離したくなかった。

明らかにそわそわと動揺している日向くんの真意を探るべく、じーっと見つめた。


「私と、腕組むの、……やだ?」

「ぜっぜんぜん! 全然、やじゃない、やじゃないっ、けど、なんで急に!?」

「日向くんが」


言葉を区切る。

口にすると事実を改めて実感することになるから、覚悟してから続けた。


「……嫌そうだから、手つなぐの」


ぎゅっと日向くんの腕を抱き締めた。


「だから、代わりに……」


さっきの比じゃないくらい鼓動が早くなる。
でも、いまさら、やめるなんて言えない。
こうしてたいと思ってるし、日向くんだって本気で嫌なら振り払うことくらいするだろう。
私を壁際に移動させた時みたく、日向くんの方がずっと力はある。

あれ。

そこまで考えついてから、日向くんは、“ほんとうに”私のことが嫌じゃないんだと理解した。
いや、頭ではそうなんだろうとわかってたつもりだけど、行動から振り返っても実際そうだった。
日向くんの行動何ひとつ取っても、私を嫌がっていたことはない。

だったら、なんで手を……


さん」


はたと、思考するのを止めて日向くんを見た。

こんな大それたことをしておきながら、考えるのに夢中になっていた。

日向くんがどれほど動揺しているか、まったくわかっていなかった。
耳まで赤いのが見てとれた。悩ましげに眉を寄せているのも。

やっと、日向くんの腕を納得して放した。

暖房が風向きを変えて私たちの間をそよいだ。規則正しく、一定のリズムで。


さん、ずっとかわいい、から……、こんな、近いとさ」

「ご、ごめん」

「あっ、謝んないでっ。 おれも、謝らない、さんも、だから、その……」


風、だと思った。

腕のなか、日向くん、抱き寄せられた。
やさしく、強く、それも一瞬。
抱きしめ返すだけの余韻もなかった。

離せなくなりそう。

日向くんは笑顔みたいな切なげな響きを私にだけ届けて、またなんにもなかったみたく離れた。

こうやって佇む私たちを、事情の知らない人が見たなら、ただの中学生二人と捉えるだろう。
胸の内を知る方法はないし、興味もないはずだ。

ただ、日向くんと見つめ合った。

好きと言い合うような、
なんでと聞いているような、
なんでもないと返すような、

なにか、なんだか、はっきりしない感覚を、お互いを鏡にして整理するみたく。

でも、私は手を繋ぎたかった。
無性に日向くんにふれていたかった。

満たされたはずの器がもう空っぽみたい。

おかしいな、こわれてるのかな。


片手を差し出すと、日向くんは当然気づいた。

嫌がられるんだろうか。


「!」


力いっぱい抱きしめられた。

理解が追いつかず、全身に伝わる感触だけがこの状況を教えた。


「かわいいっ!!!」

「!?」

「おぉーしっ、よし! 手、つなぐっ、決めた!」


日向くんはべしっと自分のほっぺたを叩いてから、私の手を握った。

自分で望んでおきながら、スイッチが切り替わったように見える日向くんに置いてけぼりにされた気分だった。

夢? いや、夢じゃない。

日向くんの手はがっちり私のを掴んでいる。


「ストラップ、行こうっ」


日向くんの調子に引っ張られて、次のお店を探すべく足を動かした。
体はともかく心は立ち止まっている。

今の、今まで、見ていたはずの日向くんはどこに消えていなくなったんだ。
別人? いや、そんなことありはしない。


さん、上行ってみる?」

「う、ん……」

「じゃっ、こっち!」


日向くんがテキパキと建物の中を進んでいく。
手は繋いだままで、なのに、迷子にでもなった気分で、辺りを見回した。
日向くんがさっぱりわからない。
戸惑いだけが膨らんで、かといって、どう対処すべきか考えあぐねた。

日向くんの先ゆく姿に視線を注いでいると、ふと日向くんが振り返り、笑顔を返された。
よくみる、いつもの、ちゃんと、日向くんだった。

ますます混乱し、何がしたいわけじゃなく声をかけていた。


「あの、日向くん」

「なにっ、さん!」

「日向くん、……だよね?」

「ん? 日向だよ、日向翔陽」

「だよね」


日向くんなんだよ、ここにいるの。

人目を避けた場所の時と余りに違うから、ますます戸惑った。
そんな私に気づいたのか、日向くんが一歩距離を縮めた。
嫌じゃないけど警戒はしてしまったが、日向くんは気にするそぶりはなく、囁いた。

さっきの、うれしかった。

言葉尻が本人にトスを上げた時みたく飛び跳ねていた。

日向くんが喜んでくれてることは、かろうじてわかった。
それでも腹落ちせず、また問いかけた。


「日向くん、……うれしいの?」

「うれしいよ、さんがいてくれて嬉しい」

「そっか」


それなら、いっか。

もういいやって、困惑する気持ちを手放した。

日向くんが目を丸くした。


さん、どうかした?」

「したけど、もう、大丈夫」

「えっ、それダメじゃん! なんとかしないとっ」

「いいの、ほんと」


悩みって悩みだと思うところから始まるのかもしれない。

今、好きな人に抱きしめてもらえて、こうやって手もつなげて、ストラップも探しに行けて、一体、何を悩むんだろう。

もっと、“いま”この瞬間にいたかった。


「日向くん」

「なに?」

「今度、腕組んでよくなったら教えて」

「え!」

「あ、上、あがろう、エスカレーター」

「う、うんっ」


日向くんがモゴモゴと何か言いたげに口を動かして、でも言葉に出来てなくて、その様子がなんだかおかしくて笑い声を漏らすと、日向くんが『なに?』って聞いた。

なんでもないよ。

繋がっている日向くんの手に、もう一方の手も添えた。

大事なんだって伝わるように。
大事にするんだって誓うように。

どれだけ気持ちが揺らいでも、変わらない想いを感じて、違うフロアーを進んだ。


視線を感じる。

それは、やっぱり日向くんのものだった。



next.