「あっ!!!」
日向くんが大きく声を上げた。
バス停に着いた時だった。
「さん、ごめん、おれ、寄るところあった! さき帰ってて!」
ここで待ってるよ。
言う間もなかった。
「じゃあね、さん! また夜っ」
わかった、とも、夜ってなに?とも、少しも口を挟む隙なく日向くんは走り去った。
後ろ姿はもう見えない。
置いてけぼりになった、という感覚より、“この感じ”が日向くんだよなとどこか納得していた。
「!」
バスが扉を開けた。
既に停車していたバスは暖房が逃げないように扉を閉めていて、乗り込もうとした人に気づき、運転手の人が操作したようだった。
私も乗ろう。
車内はあたたかい空調が強く吹き付ける。
行きのバスと同じ奥の席に座った。
隣に日向くんはいない。
この手も、腕も、日向くんにふれた感覚が残っていた。
目を閉じると、あのイルミネーションと音楽がよみがえる。
はたと気づく。
頬に手を当てる。
……ごめん、おれ、がまんが、その……
なにか ふれた 感覚を思い出す。
ほっぺたなら、いいかなって
それはたしかに頬に残された、一瞬の出来事だ。
いいかなって
いいかなって
あと少し、横に、逸れていたら。
「!!」
バスが動き出し、危うく唇に爪が刺さりそうだった。
携帯もちょうど震えた。
日向くんのメールだった。
『ちゃんと乗った?』
確認だった。
『乗ったよ、いまバス。待った方がよかった?』
『ううん、さんが外にいないか気になった!』
あっという間に消えた日向くんだけど、私を忘れたわけじゃなかったみたいで、ほっとする。
返信せずにいるとまた新着メールだ。
日向くんからだった。
『準備できたら言って』
短い一言だけ。
準備って、たぶんだけど、バスに乗る前に言っていた『また夜』と組み合わせて考えるに、きっと電話のことだ。
夕飯は家で食べようって話したから、食べ終わって電話する準備ができたら連絡して、ということだとは思うんだけど……
ひ、なた、くん。
準備って、なん、の。
そこまで携帯のキーを押すのをやめて、削除を繰り返した。
確認せずともわかるから。私は、わかる。
『日向くんも気をつけて帰ってね。あとで。』
短く返すことにした。
日向くんにはわかるから。
これまでの時間が、正解を用意していた。
*
家に帰り、真っ先に気になったのは、部屋のカレンダーだった。
烏野!と目立つように書き記した今日が終わろうとしている。
カバンから取り出した携帯には、ストラップがついている。
プリクラは折れないようにしまっておこう。
増えていく思い出、きらきらとした夜の灯りともに、日向くんとの時間がよぎる。うすぐらい部屋で、前触れなく。
ふっ と、鮮明にいろんな“日向くん”が主張しだし、制服のままベッドに飛び込んだ。
だれもいないのに両手で顔を覆った。
ほっぺた。たしかに、当たった。
間近で見た日向くん。
最初から目開けといたほうがよかったかな。
いや、でも。
“口は、さんが、ちゃんとしたいと思った時にって”
「い、る! 食べる!!」
親に夕飯を食べないか確認されて、あわてて飛び起きた。
すぐ部屋を飛び出そうとして、まだ制服だったことに気づく。
着替えたらすぐに行くと付け足した。
ああ、もう。
忘れられない一日だ。
*
『さん?』
もしもしの前置きもなく、日向くんは開口一番に私を呼んだ。
自分の部屋で電話した。
日向くんも今日は部屋だそうだ(外の時もある)。
受験を理由に電話も我慢していたから、ちょっと久しぶりのやりとりだ。
日向くんがちゃんと無事に帰れたか聞いてくるから、笑って返した。
「私、子どもじゃないよ」
『それはっ、そうだけどっ、気になるっ』
だったら、一緒に帰ってくれればよかったのに、と思うと同時に連想される疑問。
「日向くん、どこ寄り道したの?」
そもそも入試が終わってからの時間ぜんぶが寄り道だ。
さらに日向くんだけ寄るところがあるとすると、気にはなる。
日向くんはわかりやすく電話越しでぎくしゃくとしていた。
『な、なんでもない!なんでも!』
「そっか」
『さんにはいつか、話すけど、それは、今じゃなくて! いやっ、いま、話してもいいんだけど、それだと』
とくに深く追求したつもりはないのに、日向くんは説明を続けた。
言わなくてもいいよって、ただ一言挟むだけなのに、日向くんがよどみなく話すのを遮りたくなかった。黙って聞いていた。
好きな人が話してくれる。それを聞くことができる。
うれしい。
『さん、き、聞いてる? どうしてもっていうなら……』
「ううん、いい」
話さなくて大丈夫の意味で告げた。
ベッドの上で、膝を抱え直した。
「気になったから聞いただけで……
日向くんが話したくなった時でいいよ」
どうしても気になるなら聞くけど、別段強い想いがあるわけじゃない。
自分の中ではもう終わった話題だったけど、電話の向こうの日向くんは何か唸っていた。
「日向くん?」
『さんが話してほしいならっ、おれは!』
「いいって、話してくれるなら聞くけど」
『で、でも、それだと……!』
「だったらいいから」
前も似たようなことがあったような。
あ、そうだ。
「もしかして、私に何かプレゼントしてくれるとか?」
『なんでわかっ!? いやっ、ちがっ、……う、くも、なくない』
どっちだろ。
わからないけど、なにか確信めいたところに予期せず近づいてしまったようだった。
『さん、やっぱり、エスパーなんじゃ……』
日向くんがわかりやすいだけだけど、つい笑ってしまった。
「クリスマスの時もそうだったから」
もう切れてしまったけど、この手首に結んでもらったプロミスリングを思い出す。
『す、すぐじゃないけど』
日向くんがゆっくりと言葉を選んでいるのがわかった。
『話すの、さんが覚えてないくらい先……になるかもしんないけど、ちゃんと話す。
ぜんぶ話すから、、……、さんに、聞いてほしい、です』
気になったのは話される内容じゃなかった。
「なんでフルネーム?」
『な、……なんとなく! き、気分!』
気分、か。
「日向翔陽くん」
『はいッ』
学校で当てられた時みたく、日向くんは元気よく答えてくれた。
『なんで急に?』
「私も気分」
『そっか』
「卒業式の時もフルネームで呼ばれるし」
卒業式の予行練習が浮かんだ。
クラスの皆、同じ学年がそろって入場し、決められた通りに体育館に入って、並べられたパイプ椅子に腰かけて、壇上に一人ずつ上がっていく。
装飾はすべて揃ってなくても、来賓の人たちがいなくても、その時はもうすぐだと実感した。
『さん』
その声はやさしかった。
大丈夫かと、気遣ってくれたのがわかる。
カレンダーが目についてもこわくない。
「日向くんがいてくれるから大丈夫」
本当に、心の底からそう想える。
「今ね、あのときみたいなんだ。
日向くんと自転車で二人乗りしたとき」
いつかの夜、自転車で二人、坂道を下った。
最初はハンドルもふらついていた。
下り坂になって、荷物と自分たちの重さでスピードがぐんぐんと上がった。怖くなった。
途中の登り道を上がるには、ブレーキはいらないんだって教えてくれたのも日向くんだ。
日向くんが、大丈夫だって教えてくれた。
「だからね、それと同じで今……ドキドキしてる、あれ、わくわくかな?」
高校生になるのが楽しみだ。
って、いつからか、日向くんからの相槌がない。
「もしもーし? 日向くん?
……あれ、聞こえてる?」
携帯電話の画面を確認してみても繋がっている状態だし、電波のマークも3本線、つまり良好だ。
「日向くーん?」
『ごめん、さん……聞こえてる』
「ならよかった」
いっぱいしゃべりすぎたから引かれたのかと思ったけど、そうではないそうだ。
じゃあ、なんで黙ってたんだろう。
『それはッ、その、心の中で、アイコンタクトでしゃべってた、だけで』
アイコンタクトで、しゃべるって、なんだろう。
相変わらず日向くんの返事は興味深い。
つまり言いたいことは、と日向くんは続けた。
『さんに会いたくなったって、だけで。 明日、学校来る?』
会おうと言われていることはわかった。
でも、予定を言い合ってもタイミングが合わなかった。
そういう時もある。
「次会うの、卒業式になりそうだね」
『……会うと、もっと会いたくなんの、なんでだろ。 さんもおれみたく……』
「おれ、みたく?」
『こっ声にっ、出ていた!』
ばっちり聞こえている。
それに、日向くんの言いたいこと、なんとなくわかる。
「私も同じだよ」
『ほんと! ……に?』
「今も電話うれしいし」
『そっかっ!』
「それに……」
不意に、あの感覚がよみがえる。
頬を掠めた感覚。
膝に顔をうずめ、なんでだか隠れたくなった。
日向くんは言葉の続きを待っていたけど、日向くんにならって『なんでもない』と答えた。
なんでもなくなんか、ない。
ドキドキする。また違う胸のときめき。
『気になるっ、さん、“それに”の続きは?』
「だめ、忘れて」
『わっ忘れるの無理、教えて!』
「だめだって」
『おれ、眠れなくなる!』
「明日、試験?」
『ちがうっ』
「じゃあ寝れなくても大丈夫だね」
『ずりっ、いや、試験だった! さん教えて!!気になる!さん!!!』
『にーーちゃん!うるさい!!』
電話の向こうで夏ちゃんの声が聞こえてきた。
と話してるなら携帯貸してと攻防が始まっていた。こうなると、結構長くなるんだよな、と二人の様子をBGMに針の進んだ時計を眺めた。
『さんはまだおれとしゃべってるからあっち行きなさい!』
楽しそうだな、なんて聞きながら、ペットボトルのおまけのカラスのヒナを指先でつついた。
そんな風に、時間は過ぎていった。
この夜も、次の日も。
受験結果も、ちら、ほら、と舞い込んできた。
烏野の合否もまた、卒業式の前には出そろった。
next.