ハニーチ

スロウ・エール 240




「あっ!!!」


日向くんが大きく声を上げた。
バス停に着いた時だった。


さん、ごめん、おれ、寄るところあった! さき帰ってて!」


ここで待ってるよ。

言う間もなかった。


「じゃあね、さん! また夜っ」


わかった、とも、夜ってなに?とも、少しも口を挟む隙なく日向くんは走り去った。

後ろ姿はもう見えない。

置いてけぼりになった、という感覚より、“この感じ”が日向くんだよなとどこか納得していた。


「!」


バスが扉を開けた。
既に停車していたバスは暖房が逃げないように扉を閉めていて、乗り込もうとした人に気づき、運転手の人が操作したようだった。

私も乗ろう。

車内はあたたかい空調が強く吹き付ける。

行きのバスと同じ奥の席に座った。

隣に日向くんはいない。
この手も、腕も、日向くんにふれた感覚が残っていた。

目を閉じると、あのイルミネーションと音楽がよみがえる。

はたと気づく。

頬に手を当てる。



……ごめん、おれ、がまんが、その……



なにか ふれた 感覚を思い出す。



ほっぺたなら、いいかなって


それはたしかに頬に残された、一瞬の出来事だ。


いいかなって

いいかなって


あと少し、横に、逸れていたら。



「!!」


バスが動き出し、危うく唇に爪が刺さりそうだった。
携帯もちょうど震えた。

日向くんのメールだった。


『ちゃんと乗った?』


確認だった。


『乗ったよ、いまバス。待った方がよかった?』

『ううん、さんが外にいないか気になった!』


あっという間に消えた日向くんだけど、私を忘れたわけじゃなかったみたいで、ほっとする。

返信せずにいるとまた新着メールだ。
日向くんからだった。


『準備できたら言って』


短い一言だけ。

準備って、たぶんだけど、バスに乗る前に言っていた『また夜』と組み合わせて考えるに、きっと電話のことだ。

夕飯は家で食べようって話したから、食べ終わって電話する準備ができたら連絡して、ということだとは思うんだけど……


ひ、なた、くん。

準備って、なん、の。


そこまで携帯のキーを押すのをやめて、削除を繰り返した。

確認せずともわかるから。私は、わかる。


『日向くんも気をつけて帰ってね。あとで。』


短く返すことにした。

日向くんにはわかるから。

これまでの時間が、正解を用意していた。


















家に帰り、真っ先に気になったのは、部屋のカレンダーだった。

烏野!と目立つように書き記した今日が終わろうとしている。

カバンから取り出した携帯には、ストラップがついている。
プリクラは折れないようにしまっておこう。

増えていく思い出、きらきらとした夜の灯りともに、日向くんとの時間がよぎる。うすぐらい部屋で、前触れなく。

ふっ と、鮮明にいろんな“日向くん”が主張しだし、制服のままベッドに飛び込んだ。
だれもいないのに両手で顔を覆った。

ほっぺた。たしかに、当たった。

間近で見た日向くん。

最初から目開けといたほうがよかったかな。

いや、でも。


“口は、さんが、ちゃんとしたいと思った時にって”




「い、る! 食べる!!」



親に夕飯を食べないか確認されて、あわてて飛び起きた。

すぐ部屋を飛び出そうとして、まだ制服だったことに気づく。
着替えたらすぐに行くと付け足した。


ああ、もう。


忘れられない一日だ。

























さん?』


もしもしの前置きもなく、日向くんは開口一番に私を呼んだ。

自分の部屋で電話した。
日向くんも今日は部屋だそうだ(外の時もある)。

受験を理由に電話も我慢していたから、ちょっと久しぶりのやりとりだ。

日向くんがちゃんと無事に帰れたか聞いてくるから、笑って返した。


「私、子どもじゃないよ」

『それはっ、そうだけどっ、気になるっ』


だったら、一緒に帰ってくれればよかったのに、と思うと同時に連想される疑問。


「日向くん、どこ寄り道したの?」


そもそも入試が終わってからの時間ぜんぶが寄り道だ。
さらに日向くんだけ寄るところがあるとすると、気にはなる。

日向くんはわかりやすく電話越しでぎくしゃくとしていた。


『な、なんでもない!なんでも!』

「そっか」

さんにはいつか、話すけど、それは、今じゃなくて! いやっ、いま、話してもいいんだけど、それだと』


とくに深く追求したつもりはないのに、日向くんは説明を続けた。

言わなくてもいいよって、ただ一言挟むだけなのに、日向くんがよどみなく話すのを遮りたくなかった。黙って聞いていた。
好きな人が話してくれる。それを聞くことができる。
うれしい。


さん、き、聞いてる? どうしてもっていうなら……』

「ううん、いい」


話さなくて大丈夫の意味で告げた。

ベッドの上で、膝を抱え直した。


「気になったから聞いただけで……

 日向くんが話したくなった時でいいよ」


どうしても気になるなら聞くけど、別段強い想いがあるわけじゃない。

自分の中ではもう終わった話題だったけど、電話の向こうの日向くんは何か唸っていた。


「日向くん?」

さんが話してほしいならっ、おれは!』

「いいって、話してくれるなら聞くけど」

『で、でも、それだと……!』

「だったらいいから」


前も似たようなことがあったような。

あ、そうだ。


「もしかして、私に何かプレゼントしてくれるとか?」

『なんでわかっ!? いやっ、ちがっ、……う、くも、なくない』


どっちだろ。

わからないけど、なにか確信めいたところに予期せず近づいてしまったようだった。


さん、やっぱり、エスパーなんじゃ……』


日向くんがわかりやすいだけだけど、つい笑ってしまった。


「クリスマスの時もそうだったから」


もう切れてしまったけど、この手首に結んでもらったプロミスリングを思い出す。


『す、すぐじゃないけど』


日向くんがゆっくりと言葉を選んでいるのがわかった。


『話すの、さんが覚えてないくらい先……になるかもしんないけど、ちゃんと話す。

 ぜんぶ話すから、、……、さんに、聞いてほしい、です』


気になったのは話される内容じゃなかった。


「なんでフルネーム?」

『な、……なんとなく! き、気分!』


気分、か。


「日向翔陽くん」

『はいッ』


学校で当てられた時みたく、日向くんは元気よく答えてくれた。


『なんで急に?』

「私も気分」

『そっか』

「卒業式の時もフルネームで呼ばれるし」


卒業式の予行練習が浮かんだ。

クラスの皆、同じ学年がそろって入場し、決められた通りに体育館に入って、並べられたパイプ椅子に腰かけて、壇上に一人ずつ上がっていく。

装飾はすべて揃ってなくても、来賓の人たちがいなくても、その時はもうすぐだと実感した。


さん』


その声はやさしかった。
大丈夫かと、気遣ってくれたのがわかる。

カレンダーが目についてもこわくない。


「日向くんがいてくれるから大丈夫」


本当に、心の底からそう想える。


「今ね、あのときみたいなんだ。

 日向くんと自転車で二人乗りしたとき」


いつかの夜、自転車で二人、坂道を下った。

最初はハンドルもふらついていた。
下り坂になって、荷物と自分たちの重さでスピードがぐんぐんと上がった。怖くなった。

途中の登り道を上がるには、ブレーキはいらないんだって教えてくれたのも日向くんだ。

日向くんが、大丈夫だって教えてくれた。


「だからね、それと同じで今……ドキドキしてる、あれ、わくわくかな?」


高校生になるのが楽しみだ。

って、いつからか、日向くんからの相槌がない。


「もしもーし? 日向くん?

 ……あれ、聞こえてる?」


携帯電話の画面を確認してみても繋がっている状態だし、電波のマークも3本線、つまり良好だ。


「日向くーん?」

『ごめん、さん……聞こえてる』

「ならよかった」


いっぱいしゃべりすぎたから引かれたのかと思ったけど、そうではないそうだ。

じゃあ、なんで黙ってたんだろう。


『それはッ、その、心の中で、アイコンタクトでしゃべってた、だけで』


アイコンタクトで、しゃべるって、なんだろう。

相変わらず日向くんの返事は興味深い。

つまり言いたいことは、と日向くんは続けた。


さんに会いたくなったって、だけで。 明日、学校来る?』


会おうと言われていることはわかった。

でも、予定を言い合ってもタイミングが合わなかった。

そういう時もある。


「次会うの、卒業式になりそうだね」

『……会うと、もっと会いたくなんの、なんでだろ。 さんもおれみたく……』

「おれ、みたく?」

『こっ声にっ、出ていた!』


ばっちり聞こえている。

それに、日向くんの言いたいこと、なんとなくわかる。


「私も同じだよ」

『ほんと! ……に?』

「今も電話うれしいし」

『そっかっ!』

「それに……」


不意に、あの感覚がよみがえる。
頬を掠めた感覚。

膝に顔をうずめ、なんでだか隠れたくなった。

日向くんは言葉の続きを待っていたけど、日向くんにならって『なんでもない』と答えた。
なんでもなくなんか、ない。
ドキドキする。また違う胸のときめき。


『気になるっ、さん、“それに”の続きは?』

「だめ、忘れて」

『わっ忘れるの無理、教えて!』

「だめだって」

『おれ、眠れなくなる!』

「明日、試験?」

『ちがうっ』

「じゃあ寝れなくても大丈夫だね」

『ずりっ、いや、試験だった! さん教えて!!気になる!さん!!!』


『にーーちゃん!うるさい!!』


電話の向こうで夏ちゃんの声が聞こえてきた。

と話してるなら携帯貸してと攻防が始まっていた。こうなると、結構長くなるんだよな、と二人の様子をBGMに針の進んだ時計を眺めた。


さんはまだおれとしゃべってるからあっち行きなさい!』


楽しそうだな、なんて聞きながら、ペットボトルのおまけのカラスのヒナを指先でつついた。


そんな風に、時間は過ぎていった。
この夜も、次の日も。

受験結果も、ちら、ほら、と舞い込んできた。

烏野の合否もまた、卒業式の前には出そろった。



next.