ハニーチ

スロウ・エール 246



早く、はやくしなくちゃ。

急ぎすぎて、階段のひとつ飛ばしを失敗しかけた。

ときめきとは違う危険信号。

学校最後の日に、階段を踏み外して大ケガです、なんてシャレにならない。

一段一段踏みしめてグラウンドを目指した。

いつものくせで下駄箱までやってきたけど、考えてみれば今履いている靴もどうせ今日限りだ。

少しでも急ぎたくて、靴も履き替えずに飛び出した。







ぞろぞろと校舎に向かって人が戻ってくる。
同じ学年の人と、たぶん後輩の人たちだ。

その中に、第二ボタンをくれた彼の姿はなかった。


「関向くんっ」


見回している内に目が合った同じクラスの関向くんに声をかけると、足を止めてくれた。


、どうした?」

「つッ、……遠野くん見なかった?」

「なんか呼ばれてるって、体育館の方に行ってたな」

「体育館、そっか。 ありがと!!」


方向転換をすばやくして、また駆け出す。

走るたび、ポケットの中のボタンが気になった。






教えてもらった体育館は、卒業式の片付けが一部始まっていた。

来賓の人たちはもちろんいないし、生徒の家族席もすっからかんになっている。

生徒の姿はない。

考えてみれば、卒業生はホームルームで自分たちのクラスにいる。
家族の人たちは卒業おめでとう会の場所に移動しているか、もう帰っているはずで、呼び出された生徒が中にいるはずなかった。

と、なると。




「うわっ!?」

「ごっごめん、泉くんっ」


体育館の裏側に回ろうとしたちょうどその時、鉢合わせたのは、同じクラスの泉くんだった。


さん、どうしたの?」

「人、探してて」

「誰?」

「その、遠野くん、こっちの方に来てるって関向くんから教えてもらって」

「いやー……来てないと思うけど。

 なあ、遠野ってこっち来てた?」


泉くんの後ろには、男子が数人バスケットボールを持って遊んでいるようだった。

伝言ゲームみたく会話が交わされると、なんでも校舎の方に向かったらしいとわかった。


さん、用あるなら、おめでとう会で待ってた方がいいんじゃ」

「……、もうちょっと学校のなか探してみる」


みんながいる前で切り出せる話じゃないし、何より、私が待てなかった。
事情を説明する時間も惜しかった。


「ありがと!!」


はやく、早く、伝えて、そのあと、やりたいことがある。







校舎の中は静かだった。

行ったり来たりの連続で息が上がっていた。
この荒い呼吸も、一番上の階の人にまで届いてしまうのかと心配になったけど、たぶん、当人たちは自分のことでいっぱいだ。

階段から人影がみえた。二人。
一人の女の子がしゃくりあげ、その肩をもう一人の子が支えている。

よく頑張ったよ。言えたじゃん。

くりかえされる励ましの言葉は、次第に遠のいていった。

2年生、もしくは1年生だろう。

しばらくその場で待ち続けたけど、階段から誰も下りてくる気配はなかった。


どうしよう。

でも、ずっとここにいても、おめでとう会に遅刻する。


意を決して階段を上がった。



鍵は、かかっていなかった。


屋上の扉を引いたとたん、一気に風が吹き込んだ。
その勢いで扉がガツンと壁にぶつかって、金属音を立てた。

舞い上がるスカートを押さえて扉を閉める。


誰も、いない。



いない。



こっちも、……いない。




「もしかして、翼くんの方が先に帰ったのかな」



誰もいないのをいいことに呟いてみる。

もちろん返事はない。私だけだ。


なんで鍵、開いてたのかな。



勝手に、告白、なのかなと、想像していた。

どうしたらいいかわからず、かといって走りつかれたのもあってトボトボと屋上を歩いた。

なんにもない。


空、広い。


柵までやってきて、いつもならしないのに、段差に足を引っかけた。

グラウンド、みえる。

体育館もみえる。


視線を上げれば、山の向こう、あの先に、高校があるはずだ。

見えなくても見えていた。


ピョン、と屋上の手すりから離れ、ポケットから、小さなボタンを取り出した。

校章の入った、金色のそれは、きっと、私じゃない誰かがもらうべきだった。


ぎゅっとこぶしを握り、遠くに投げやるようにポーズを決めた。



「……っ」



腕を振り切ることはできなかった。


受け取ってほしいと言われたそのときを思い出す。

誰かの中に、自分がいた。

もっと、なにか、返せたんじゃないか。
やり直したかった。今、ここで。

こぶしをぎゅっと握り締める。

風は涙をぬぐうことなく、ただ、冷たく通り過ぎた。

変わらない自分に嫌気がさす、けど。


「……よし!」


ただ、“いま”できることをしようって思う。

過去、変われなかったなら、

いま、変わろう。


ポケットにボタンを戻した。

受け取ることにした。


同じ場所で、同じ時を過ごしながら、同じ気持ちを共有してきたわけじゃない。
それが申し訳なかったけど、ひとつだけ、きっと“同じ”なんじゃないかって思う。

私が日向くんに伝えたいと思うように、きっと、私に伝えたいって思ってくれたんだって。

正解がないのなら、私がそうして欲しいと思うように、私も“そうしたい”。

目元をこすった。
こんなことなら、ハンカチ、持ってくればよかった。

鼻を啜って、いま、自分はどんな顔だろうとふと冷静になる。
それに、屋上の鍵ってどうすればいいんだろ。
職員室に先生たちいるんだっけ。……でも、なんて説明したらいいんだろ。
屋上のドア、空いてましたって?

混乱しだした頭が訳もなく回りだし、でも、なんとなく、柵に近づいた。


なんですぐ、わかるんだろう。

私のセンサーはすごく優秀だった。


グラウンドの端っこ、日向くんを見つけた。

きょろきょろしてる……

ボール、探してるのかな。

バレーの練習がしたくなったのかもしれない。

日向くん一人だった。


息を大きく吸い込んだ。



「日向くーんっ!」


瞬発的に呼びかけた。

気づくはずないのに、こんな距離なのに。

でもまた呼んでみた。日向くん、日向くん。

やっぱり気づく様子はない。


駆け出した。


風がまた吹いて髪が視界を遮るから手で払う。
めくれたスカートはなびいて、きっと自然にもとに戻るだろう。

泣いてたくせに、取り繕う時間、ない。

本当はもっと女の子らしく準備すべきって思う。

でも、


会いたい。



もう、会いたい。


気持ちがはじけていた。


心のまま飛んでいきたい。


今すぐ、日向くんに伝えたいことがある。


階段は続いた。
まとめて踏み飛ばしたかったけど、体力のなさは自覚している。

グラウンド、体育館、屋上。
もう十分走った。

安全第一、階段は一段ずつ。





上履き、

    すっぽ抜けた。





行き場を失くした片足、身体は傾き、宙に浮く。


落ちる。









「だいじょーぶ?」








たしかな人間のぬくもり、力強い抱擁。

抱きとめられていた。


鼓動がひどく早い。
もし、助けてもらえなかったら。

自分のいた場所を確かめる。

階段、上の方。

向こうに、脱げてしまった片方の靴がみえる。





さん、へーき?」


間違いなく、日向くんだ。

夢じゃない。
ここにいる。

階段から落ちかけた緊張感が抜け切らず、ただ、呼びかけに、こくり、首を縦に振る。
私が本当に大丈夫なことを確かめると、日向くんはやわらかく目を細めて離れた。


「よかった!!」


まだ呆然とする私の代わりに、日向くんは転がっている上履きを拾いあげてくれた。


さん、どーぞ!」


わざわざしゃがんで、履きやすいように差し出してくれる。

日向くんはそのままの態勢で私を見上げた。


「ぁ、……ありがと」


おそるおそる上履きに足先を入れた。
どういたしまして、と同時に、日向くんはシャキッと立ち上がる。


「ごめんね、日向くん」

「ん?なにが?」

「私のせいで怪我とか、痛くなかった?」

「大丈夫、ほらっ」


日向くんが自分の無事を示そうと両腕も足も動かしてみせた。

ほっと胸をなでおろし、踏み外した階段を見上げた。


さん、教室行ってた?」


日向くんの質問に固まってしまう。


「おめでとう会もうすぐ始まるから荷物取りに行ってたのかなって。 さんの荷物、夏目が持ってったよ」

「そ、そうなんだ、お礼言わないと」


私がいたのは教室じゃなくて屋上だったけど、わざわざ訂正するのは憚られる。
かといって嘘をつきたくない。

日向くんが不思議そうに首を傾ける。

話題をそらしたくて口走った。


「日向くん、なんでここに? 私のこと探してた?」

「ん!」


日向くんはにこやかに頷いた。


「ご、ごめん、約束、私からしたのに」

「待ちきれなかった!」


言葉を区切って、日向くんはズボンのポケットに手を入れた。


「みんな移動し始めてたしさ、コージーたちに聞いたらさん、学校の中だって言うし、おれも、……さんに会いたかったし。

 どこだろって探してたら」


私のせいで危ない目に合わせてしまった訳だ。

日向くんは慌てた様子で否定した。


「ぜんぜん大丈夫だよ! ビックリはしたけど!」

「で、でも、ごめん!」

さん、降ってきたとき!」


日向くんは声をはずませ、断言した。


「おれ、うれしかった!!」



next.