ハニーチ

スロウ・エール 25


「た、体育館、おっきい…!」


一歩足を踏み入れて、改めて実感する。

既に何校ものバレー部の人たちが練習をしている。

ボールが床にぶつかる音、バレーシューズが床をする音、監督や選手たちの声、応援団の声、体育館のライトの眩しさ。
五感を使って、今まさに夢の舞台にやってきたんだと自覚する。

この空気を大きく味わう。


「体育館の匂い…」

「匂い?」

「ほら、この独特の匂いがさ」

「はいはい。あっち座る?」

「う、うん」


もう一回深呼吸をして、友人の後に続いていく。
観客席は、まばらに埋まっている。
私たちと同じ制服姿の女子の姿もあって、自分たちが浮くこともなさそうだ。

あ、ダメだ。

ふと思う。
緊張がこみ上げて、急に気持ち悪くなってくる。


、ここでいい?どうせ試合始まったら、立つんだし」

「う、うん」

が試合するんじゃないんだよ」

「わわかってる」


口ではそう言いながら、やっぱり肩の力は抜けなかった。
この変な感覚を少しでも消したくて、応援に集中しようと、体育館を見回して雪が丘中学のユニフォームを探す。
緑、緑はないかな。

相手校の北川第一はすぐに見つかった。
なにせ『必勝!!』という横断幕を飾っているし、おそらく控えの選手だろう、たくさんの男子がメガフォンを持って『北一!北一!』と連呼している。

さすがは、優勝候補だ。
こんなことなら、私もメガフォンでも持ってくればよかった。横断幕だって、手作りできるのに。
想像の中だけでも横断幕を飾ってみたけど、とんでもなく恥ずかしかった。これで、日向君を応援したいなんて、私、しょぼすぎる。


「弱気、ダメだ」

「ん?」

「なっちゃん、私、飲み物買ってくる」

「じゃあ荷物見てるね」

「よ、よろしく」


財布一つだけ握りしめて、席を立つ。
少しだけ乱れたスカートを直して、気持ちを奮い立たせる。

応援するんだ。
日向君を、試合しているところを、やっと、応援できる。

想いを噛み締めるだけで、急に泣きそうになった。
今、泣いてどうするんだろう。
泣くなら、せめて試合が終わってからだ。

日向君の、やっとのスタートライン。

気が急いて早足で自動販売機の前に立つ。
小銭を入れて、お茶のボタンを押したとき、色んなざわめきの中で、“雪が丘”の単語が耳に入った。

曲がり角からさりげなく覗いてみると、北川第一中学校バレー部のジャージを着た男子たちがうちの学校の噂をしていたらしい。
人数が少ないだの、リベロがいないだの、小学生だの、失礼なことを口々に言っている。
文句を言う勇気などなくて、席に戻ろうとした時だった。


「オイ、お前ら!!!あまりナメるなよ!!!」


その声は、日向君だ。
聞き間違うはずない。
再び角から、様子を伺うと、やっぱり日向君だった。

あ、でも、すごく、体調を崩しているように見える。


「マジすか!期待してます!!」


北川第一のバレー部の3人は、小ばかにしたように笑っていた。
なんで、そういう風に、相手選手のことをバカにできるんだろう。日向君が、どれだけの想いで、今日を迎えたと…


「おい2年」


私の思考も、彼らの会話も、この声で遮られた。

黒髪、身長、高い。
声、怖い。

影山さん、と小声で呼ばれたその人は、どうやら3年生のようだ。
立ち振る舞いからして、北川第一のレギュラーなのだろう。

凛と張りつめた空気、無名のうちの学校との試合前だと言うのに、余裕などほんの少しもない様子だった。


「なにしてんの、あの子」

「!」


いつまでも角っこから離れない私のそばを、他の中学の人が通った時、言われてしまった。
変に思われる。そりゃそうだ、恥ずかしい。
その場から離れてもよかったのに、でも、やっぱり動きたくなかった。

日向君と、影山という人はまだ話していた。


「バレーボールに重要なものが、身長(たかさ)だってわかってて言ってんのか?」


北川第一の人は、あっさりと真理を口にする。
よく、言えるな。
皆わかってても、言わないことだ。


「おれは、とべる!!」


そして、真理とわかっていても、そう言い切る日向君だから、私は応援したいんだ。

そうだよ、日向君はとべる。
とべるよ。

思わず買ったばかりのペットボトルを落としそうになった。




「…やっと


やっと…

ちゃんとコートで…6人で…

バレーができるんだ……!



1回戦も

2回戦も

勝って、
勝って、

いっぱい試合するんだ

おれ達のチームは!!」




この言葉の意味を、きっとこの人は理解できない。

そばで見ていた人だけ、わかる。
わかったなんておこがましいけど、その片鱗だけでも知っている。

一人じゃダメだ。

バレーは、6人でするもの。


「勝ってコートに立つのは、この俺だ!」


北川第一の人も、火花でも散りそうな闘争心を見せて、二人は別れた。

「!」

ちょうどこちらに、やってくる。
思わずペットボトルを落としてしまったけれど、その人は私の方を少しも見ずコートへと向かっていった。

泉君の声も聞こえて、二人もコートで練習を始めるんだろう。

私も、席に戻らなきゃ。


北川第一の、影山君。
どんなプレイをするんだろう。


気にかかって、携帯で調べてみると、どうやら有名選手らしかった。
“コート上の王様”という異名もついているらしい。
フルネームもわかった。影山飛雄という。
王様、と言うから、てっきりすごいスパイクでも打つのかと思ったけど、スパイクの始まりであるトスをあげるセッターのようだった。

(私と、一緒だ)

首を横に振った。
小学校のときにバレーをしていたからってなんだ。
私とは違う。中学3年間、ずっとセッターをやってきた人だ。
バレーの強豪校で、セッターを務める以上、生半可な実力ではないんだろう。

一通り調べて席に戻ると、友人がさっきより離れた席に座っていた。
ちょうど試合も始まるところだ。


「遅かったね」

「あ、うん。それより、なんで移動したの?」

「なんか不良みたいのが来たから」


友人が暗に示す方を見てみると、不良、もとい坊主頭の黒いジャージの人がいた。
横にはガタイのいい男子もいる。

私はジャージを見て、一瞬だけ祖父を思い出した。

烏野高校 排球部。

カラスと同じ黒、何にも染まらない黒。

その人たちが気になりつつも、試合開始のホイッスルで、コートに視線を向けた。


日向君、いた。


がんばれ、…がんばれ。


両手を握りしめて、結局買ったばかりのペットボトルは開けずに椅子の上に転がっていた。
喉の渇きなど、とっくに忘れていた。


next.