ハニーチ

スロウ・エール 30


気が付けば、日向君と前より距離が縮まったような気がする。

あの記念すべき初試合の時の緊張感を感じることもなくて、なんとなく穏やかな日常だ。
受験という学生生活から切り離せないイベントはあっても、まっとうな学校生活を送っている気がする。

日向君も笑顔で過ごしている。教室でも、廊下でも、放課後でも。

それなのに、私は、北川第一との試合を思い出してしまう。
時折、あの寂れたベンチで二人過ごした時間に一人タイムスリップしてしまう。

私は、あの夕闇に何か忘れ物をしてきたのかな。

毎日充実しているはずなのに、どうしてか、あの日のことを思いだして立ち止まる。

日向君は、もう吹っ切ったんだろうか。

もう、心は、次のステップである烏野に移ったんだろうか。





「よっしゃ、翔陽!」

「おっし!」


体育の時間、日向君がバスケットボールを軽やかに受け取る。

俊敏に左右に移動したかと思うと、ブロックしていた一人の隙をついて、ゴールに向かって飛び上がった。

バスケットゴールの輪にボールが入っていく。

日向君が飛んだ瞬間、まるで無重力のようだった。



「あ!」


ふと視線を戻すと、大きくそれたボールが迫っていて、反射的に手を伸ばしていた。


「いっ…!!」


ボール、受け切れず、指が痛い。


「ご、ごめん、さん!手が滑っちゃって…、大丈夫?」

「い、いい、大丈夫…全然」


私って気を抜くといつもこうだな。

じんじんと熱を持つ指を押さえて、集合の合図とともに、先生の元に集まった。
体育座りで先生の話を聞きながら、今しがたぶつけたばかりの指先をじっと眺めた。
折れたりしないよね、突き指かな。
指を軽く動かして、やっぱり痛いことを実感する。

なんにしてもバスケをする日向君を見すぎてしまったのがよくない。
情けなさにこっそりとためいきをつく。


「じゃあ体育委員はカゴとゼッケン片して終わり」

「ありがとうございましたー」


礼をして立ち上がる。
指はまだ痛むけど、利き手じゃないし、大丈夫。…きっと、たぶん。


、どうしたの?」

「いや、ボール受け損ねちゃって」

「保健室行きなよ、編み棒持てなくなる」

「さすがにそこまでじゃあ…、時間もないし、いいよ」

「ねえ、そういうの、最初の処置が重要だよ」

「でも…」



反論しかけると、友人から倍返しで説得された。
指が後から腫れて、指の形が曲がったままになるかも、とまで言われた。
な、なんでそう脅かしてくるかな。

友人の物言いと、指の実際の痛みが合わさって、放置するのも怖くなってきてしまった。


「んーー…、じゃあ…冷やすだけ冷やしてくる」

「うん、そうしな」


友人もついてきてくれようとしたから、断った。

体育の後は着替えでばたばたするんだから、私だけでいい。
ハンドタオルも濡らして、次の授業も冷やしておこう。

折りたたんであったタオルをポケットから取り出して広げた。

少しだけ早歩きしながら、さっきの日向君を思い出す。

あのジャンプ、かっこよかったな。
バスケ部でも行けるんじゃないかな、あの跳躍力。
あんなに早くドリブルできるんだし、観客の私ですら目で追えないんだから、きっと相手の男子も驚いたことだろう。

私が勝手に自慢げに頷いたときだった。


「手!」

「え!」

「大丈夫だった?」


いきなり日向君が現れたから、言葉が出てこなかった。
遅れて鼓動が早まるのは、日向君を盗み見ていたのがばれたかと思ったからだ。

まさか想像の中の日向君が現実に現れるとは思うまい。
なんとか声を出すことができた。


「あの…、ただ、ボール、少しぶつけただけだから」

「突き指?」

「かも。でも、そんな痛くないし」

「保健室は?」

「ううん、ほんと、そんなたいしたことじゃないよ」

「ほんと?腫れてない?」

「!」


無造作に手をとられて、また言葉が出てこなくなる。

日向君に触られた方がよっぽど大したことだ。

少し腫れてるって日向君は言ったけど、私からすれば腫れたんじゃなくて照れたんじゃないかって言いたかった。
瞬間湯沸かし器みたいに、私の感情は密かに沸騰していた。かたかたとフタが揺れて、想いが溢れてしまいそうだ。


「早く冷やしたほうがいいよ」

「う、うん…」


水飲み場の方へ日向君が早足で歩いていく。手はそのまま掴まれたまま。

手の仕草だけとれば、まるでドラマティックなワンシーンだった。誰かに言ったら笑われそうだけど、私にはそう見えた。
強くもなく、かといって弱くもなく、指に優しく触れてくれる日向君の手のひらは、確かに男の子だった。
前よりちょっとだけバレーボールと慣れ親しんでいる手だった。

日向君が蛇口を勢いよくひねると、びしゃびしゃと辺りが濡れた。
袖をまくって、その水に指をひたす。

最初は生温い気がしたけど、すぐに冷たくなってきた。指の感覚は冷やされていくのに、気持ちは熱くなっていく。
少しでも気持ちを落ちつけたくて、静かに深呼吸をした。

けど、日向君に話しかけられたら、そんなの効果がまるでない。


「指、どう?」

「ん…、冷やしたらましになってきたよ」

「そっか。音楽終わっても痛かったら、保健室行った方がいいよ」

「そうだね。なっちゃんにもきつく言われた」

「想像つく」


日向君が小さく肩を揺らして笑った。

つられて笑ってしまったけれど、冷静に考えてみれば私を心配してくれたわけで、こうやって与えられた二人の気遣いになんだか嬉しくなった。

あ、濡れタオル、忘れないようにしなきゃ。


「あ、やるよ」

「い、いいよ」

「指痛いのに、タオルしぼっちゃ意味ないじゃん」


日向君が私のハンドタオルをぎゅ、ぎゅと握ってくれる。
私がやるよりずっと水が絞れているのが見てとれた。


「はいっ」

「ありがとう」

「どういたしまして。戻ろっ!」

「うん」


二人で校舎に向かう。次の授業があるから早歩きだ。でも、きっと日向君は私の速度に合わせてくれている。時々、極端に遅くなるから。

日向君、どうして来てくれたの?って聞きたくなった。

勘違いしちゃいけないって思う自分もいる。

日向君は、誰にでも優しい。そんなの、わかってるじゃないか。


さんさ、サッカーとバスケどっちが好き?」


日向君から唐突に尋ねられた。


「どっち…かというと、バスケかなあ」


さっきの日向君が即座に浮かんだから、バスケと答えてしまった。
実際、競技としてみればサッカーも面白い。
バスケの方が展開が早いし、コートが狭いから見やすいという感想もある。
自分がやるなら、足より、手を使いたいくらいの感想はあれど、そこまで、こだわりがある訳じゃなかった。

そもそも、なんでバレーじゃないんだろう。

疑問はすぐに解消した。


「そっか、じゃあバスケにしよっと」

「なにが?」

「今度のスポーツ大会」

「え、あれ、男子って…そっか」


そういえば、今年は場所の都合で、サッカーかバスケのどちらかの選択だった。
女子は去年と同じでポートボール一択だから気にしてなかったけど、体育の先生が男子はどっちをやるか決めておけって言っていたなと記憶を引っ張り出した。


「そっか、日向君、バスケにするんだ」

「おう、割と得意だから見てて楽しいと思うよ」

「う、うん、絶対楽しいと思う。今日も日向君、ゴール決めてたよね」

「あ、見た?バスケ部抜かしてゴールしたとこっ」


日向君が得意げに言うから、私も素直にすごかったことを何度も連呼した。
そっか、スポーツ大会、日向君、バスケに出るんだ。
そしたら、また試合見られるな。
そう思う内に、到着だ。


「じゃ、おれ、こっち!」

「あ、ありがとね、日向君!」


男子と女子は着替える場所がもちろん違うので、二手に分かれた。

ドキドキ、ドキドキとまだ鼓動が早い。
落ち着け、落ち着かなきゃ。いや、授業が始まるから急ぐ必要はあるんだけど。

ジャージから制服に着替えながら、私の好きな方の球技に出てくれるって、何か好意的なものがあるんじゃないかってそわそわしてしまった。

平常心、平常心だ。
日向君は誰にでも優しいんだから、かんちがいはしちゃだめだ。

気を抜くと顔がにやけてしまいそうで、鏡で何度もチェックした。

友達でいい。クラスメイトでいい。
でも、誰よりちょっとだけでいいから近い存在でありたい。

壁に貼られたカレンダーを見て、スポーツ大会が少しだけ待ち遠しくなった。



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