ハニーチ

スロウ・エール 33



昼休み明けのスポーツ大会は、既に試合が終わっているチームもあって、どこかまだるい空気があった。
あいにく私のチームは午後も試合があったから、緊張感は抜けきらない。
でも、日向君と話せた。話せたんだ。

友人にからかわれないよう意識しても、この嬉しさは抑えられない。

試合は運悪く決勝戦が男子と女子とで同じ時間で、日向君を応援できなかったけれど、それでもよかった。
教室に戻るまでの間や掃除の時間、部活の合間で日向君と話せた。
お互い友達がいるからずっと一緒にいるわけじゃないけど、この数日間はそれすらもなかったんだから、もうなんでもいい。


さん、部活?」

「ううん、今日は卒アルのほう。日向君は?」

「おれ、補講が…!!」


そういえば、小テストの結果を英語の先生に言われているのに覚えがある。


「やべ、時間!じゃね、さん!」

「うん」



廊下を走っていく日向君を見送る。私も委員の仕事をしないと。

昇降口からの風でスカートが揺れた。
空が突き抜けて青い。

もうすぐテストだ。終われば、夏休みだ。






*





スポーツ大会が終わって、あっという間にテスト1週間前のことだった。



「あれ、ちゃん!」



どこかで聞いたことがある声に呼び止められる。



「あ、日向君のお母さん…! どうしたんですか」


前に日向君の家に行った時のことが頭をよぎる。

そっか、三者面談だ。もう始まってるんだっけ。


「見かけたからつい話しかけちゃって、教室って…「あ、あっちです。ご案内しますっ」

「そう? あらっ」


ちょうど歩き始めたところで、今面談を終えたらしい人が出てきた。

今度は友人のお母さんだ。何度も家に遊びに行っているから、すぐにわかった。


「夏目さん!」

「あ、日向さん。お久しぶりです」



会話が始まって、自分はもうこの場を離れてもよさそうだ。


「大変ね、東京でしょ?」

「いえ、主人はとっくに準備を進めていて、あとは私と娘が行けばいいだけで」


東京?

疑問が浮かびつつも、保護者の会話に割って入る気もないので、頭を下げてその場を立ち去った。

東京、という単語がやけに引っかかる。




さん! 夏目が先に帰るって」

「え?」

「塾の宿題がどうのって」

「あ、…そう」


不意に顔を覗き込まれると、驚く。

真ん前に日向君。


「どうかした!?」

「あ…その、なっちゃんのお母さんが面談で来てて」


って、日向君も面談じゃないか。


「日向君行かないと!」

「行くけどっ、さんの話聞いてから!」

「え、いや、でも、それじゃあ」

「いいってっ、話聞いたらソッコー走るっ」


日向君のお母さんと会ってしまった手前、自分が足止めになるのは心苦しい。
でも、今の日向君は私の話を聞くまで動きそうもない。
早口で言った。


「な、なんでもないんだけど、…なっちゃんのお母さんが東京に行くって話してたから…」


胸騒ぎがしただけだ。なんの、根拠もなく、不安を感じただけで。


日向君は目を丸くした。



「夏目って東京に引っ越すんでしょ?」

「え」

「仕事で東京行ってるお父さんとこ、夏が来たら行くって」


日向君と目が合った。すべてを見透かされた気がした。

きっと、私は情けない顔をしていただろう。






*





あれから、数日たっても、友人には何一つ聞けなかった。

ただ、心に“東京”という言葉だけが引っ掛かる。
自分の三者面談だというのに、先生の言葉もあまり頭に入ってこなかった。



「白鳥沢も狙えるって…、、すごいじゃない」

「めちゃくちゃ難関だって。ふつうに無理だよ」


私が行きたいのは烏野高校だ。

先生が余計なことを言うから母親のほうは白鳥沢受験に若干乗り気になってしまった。


「塾、行ったっていいのよ。なっちゃんのお母さんにも紹介されたし」


友人の名前が出るだけで、どこか居心地が悪い。


「いいよ、塾なんて」


当の本人を放って親はどんどんと話を進めていく。めんどくさい。すべてが煩わしくなってくる。


「遠野君のお母さんにも紹介されて…」

「いいってば。烏野に行ければ」

「なんで烏野?おじいちゃんがいるから?」


違う、日向君が行くからだ。


「…通いやすいから、それだけ」


母親は一つ息をついた。


「通いやすさもいいけど、高校も大事な進路でしょ。自分で考えないと、だけ置いてけぼりになるかもよ」


友人や遠野君は自分の意志で塾に通いだした話を続けてされた。


「まあ、烏野も今より保護者会行きやすいかもね。今晩、何食べたい?」


一通り話し終えると満足したのか違う話題に移った。
ずるい、こっちは言われたことがボディブローのように聞いているというのに。

胸のうちのもやもやがどんどん膨らむ。

このままいいのか、やりたいことも全部が中途半端なままでいいのか。

不意に泣き出したくなって、勢いのまま言った。



「…私、塾、行ってみようかな」


母親は夕飯にから揚げが食べたいといった時と同じ反応でうなずいた。


「いいよ」

「うん…」

「どっちがいいの、なっちゃんと同じとこ? 遠野君のお母さんに教えてもらったほうが近…「そっちがいい」


無意識に肩の力が入っていた。


「遠野君が通ってる方、がいい。その、近いほうがいい」


母親は『近いほうがいいなんて』と笑った。
本心は知られなくていい。

今、友人と同じ塾に通う気なんてしなかった。






*





これが、塾。

慣れない道のりでやってきた建物を前に立ちすくむ。
ビルには塾名が書いてあるから場所はここで間違いない。

おそるおそるエレベーターを使って上がってみると、受付があった。
同年代の子たちが固まっておしゃべりをしていたり、自習室には人もいた。


やっぱりやめておけばよかったかな。


塾に行くと口にしてしまったがために、親のほうが順調に手続きを進めてしまった。
まずは夏期講習を受けるという話になった。

どうやら春から塾に通っている人たちも多く、グループが出来上がっているようだ。

係りの人に教室を教えてもらって中に入ったものの、“よそ者が来た”という視線が嫌だ。どこに座ろう。



「あ!」



思わず駆け寄ってしまった。同じ学校で同じ委員だ、話しかけやすさに安堵する。


「どうしたんだ?」

「いや、親に塾進められて。翼君も同じ講習だったんだ」

「まあ」

「あ、席、となりいい?」

「いいけど」


知っている人がいる。それだけで気持ちがずいぶん楽だ。

三人掛けの席、彼が左端に座るから、右端に…と思ったけど、既に誰かの荷物があった。
真ん中に座るのは悪いかと思ったけど、徐々に人も増えてきているので座ってしまった。

受け取ったばかりのテキストをカバンから取り出す。


隣にいる彼が言った。


なら塾通わないかと思った」

「翼君だって通わなくても大丈夫でしょ?」


彼がサッカーだけでなく、成績も優秀なことは知っていた。
彼も同じテキストを取り出した。



「俺は強豪狙ってるから」



ガタッ、思わず机を蹴ってしまって、慌てて手で押さえる。

みんな何かしらの目標をもって受験するんだ。
自分はと省みると悲しくなるので、今はしない。教室内の時計を見る。もうすぐ講習が始まると思った矢先、自分の視界を遮る大きな人が目の前に立ちはだかった。

首が痛くなりそうなほど身長が高い。


「…誰?」


ぶしつけな言葉は私ではなく、隣の翼君に向けられていた。


「彼女?」

「ちちちがいます!」


反射的に口をはさんでしまった。
相手は怪訝そうな眼差しを向けてから席に着いた。


「遠野が女子を下の名前で呼ぶの初めて聞いたよ」

「お、同じ学校なので」

「ああ、…そういうこと、ふーん」

「月島」

「別に何も言わないよ、そういうの興味ないから」


どこかちくちくと人を刺激するような言い方だな。


「なに?」

「!別に何も」


ついじっと相手を見てしまった。
眼鏡もどこかオシャレでもてそう、なのに逐一嫌味っぽい。

隣に座らなきゃよかったかなと思いつつ、既に他の席はいっぱいだし、仕方ない。
学校のクラスじゃないんだし、塾が終わればさよならだ。


さんって勉強はできるけどトロそうだね」

「えっ」

「今日、数学からだよ」


指摘されて自分が取り出したテキストのタイトルが英語であることに気づいた。
間違い自体も恥ずかしいし、この人に言われたこと自体も悔しい。


「あ…」


しかもよりにもよって、家に置いてきてしまったことが発覚した。

右側の人と目が合った。ニヤリと笑われる。


「見せてほしい?」

「い、いいです! 翼君、見せて。ごめん!」


誰が右の人に頼るもんか。
ノートを開いて、大きく数学、と書いてみせた。

勉強に集中だ。この人とおしゃべりしにきたんじゃない。


ようやく授業が開始されると、塾に対する不安や緊張は消え去っていて、ただただ右側の席の人(後で翼君に聞いたら、月島くんというらしい)に対する警戒心だけが残った。


next.