ハニーチ

スロウ・エール 34




「はあー」

「はあ…」


いつもより早い登校時間、ちょうど真向いから自分と同じく伸びをしている人物を発見した。


「おはよう、日向君」

「はよー、さん、早いね」

「最近はこの時間が多いよ。日向君は朝練?」

「そう! 今日は女子の朝練ないから体育館使えるんだ」


日向君の笑顔がまぶしい。
既に明るい空がいっそう鮮やかに見える。

最近の塾通いによる精神的なダメージ、こと月島君からのチクチク攻撃が洗い流されていくような気分だ。
塾の勉強による疲れより、隣の席の人からのストレスが上ってどうなんだろう。


さん?」

「あ、ごめん」


ついぼんやりしてしまった。早く教室に行かないと。

二人で校舎に向かって歩き出す。


「おれさ、今度ママさんバレーにまぜてもらうことにした」

「えっ」

「あ、それは、おれ一人。一年生は…聞いてない、けど、おれはもっと、バレー、したいから」


もちろん毎日やっているわけではないから、ママさんたちのスケジュールに合わせて参加する。
少しでもバレーをする機会を増やしたい。

日向君はまっすぐにこちらを見た。かと思えば、勢いよく頭を下げた。



「ありがとうっ」

「ひ、日向君?」

さんのおかげで女子部ともバレーできてるし、一年生も入ってくれたし! ほんとさ、さんには感謝してもしきれないから」

「い、いいって。もういっぱい感謝してもらってる」

「何回言っても足んない気がして」

「そんなことないって」


お互いに靴を履き替えながら会話する。
同じように朝早く来ているのは、2年生の下駄箱のようで向こうで物音がした。

床に落とした上履きに足先を入れながら、隣の日向君を見た。


「日向君がバレーやりたいって思ってるからできてる。それだけだよ」


すべては日向君から始まった。その想いは変わらない。


さん、大人だ…!」

「え、どこにそんな要素が」


「二人とも、朝早いな」


ちょうど先生が通りかかった。二人で挨拶を返す。


「おはよう、日向も自習か?」

「はい!いやっ、いいえっ」

「どっちだ」


先生が書類を抱えなおして、動揺した日向君を見守った。


「こないだのテスト散々だっただろ」


日向君の方がぎくりと上下した。


「こっこれから、勝負の夏!勝負の夏はこれからなので!」

「しっかりこの夏、頑張らないと、シャレにならないからなー」

「それ、担任にもすげえ言われました」

「はははっ、三者面談こないだだもんな」


先生の笑い声が廊下に響いた。


はまあこの調子でいけば大丈夫だろ」

「だといいんですけど…」

がそんなだと日向いるのに嫌味だぞ」

「!!」

「日向もに教えてもらったらどうだ?」

「いやっ、さんはっ」


先生の軽い提案に密かに胸を高鳴らせたものの、日向君が即座に否定に入ったので少なからずへこんでしまった。
いいんだ、勉強を教えたいわけじゃない(と一人自分をフォローする)。


「先生、おれ、体育館のカギ欲しいです!」

「じゃあ一緒に職員室行くか」

「私、こっちなので」


先生と日向君の背中を見送って歩き出す。
朝から日向君に会えたのがうれしくて、階段を一つ飛ばして上がっていった。


、おはよう」

「お、おはよう、なっちゃん」


友人に会うと、胸の内から消えないもやもやがまた顔を出す。


「T君に勉強教えるの?」


何も知らない友人は聞こえていたらしい先生との会話を揶揄して笑った。
同じように何も気にせず笑えたらいいのに、私は胸の中でいつこの話題を切り出そうか悩んでいる。

日向君から聞いた友人の東京行きの話は、今でも自分の中では消化しきれずにいる。

なんで、私に話してくれなかったの?って。

最初は寂しいからじゃないかと思った。もし私が彼女の立場ならきっと、そばにいる人にこそ東京行きなんて言い出せない。

でも、周囲の同級生に聞いてみたら、みんな既に知っていた。
女子だけかと思ったら、幼馴染の関向くんどころか泉くんも知っていた。


「あれ、さんも知ってた…よね?」

「あ、…うん。知ってる、びっくりした」

「東京の高校受験ってどうだろうね」


そんな会話をしながらも、友人に対するもやもやで頭がいっぱいだった。



はもう文化祭の作品、できた?」

「まだ。テスト明けたばっかだし、これからかなあ」


夏休み明けの文化祭、私たちにとって最後の文化祭だ。
文化部とはいえこれまでの積み重ねとして作品を飾って終える。最後だからはりきっていた4月、バレー部で浮かれていた自分でも思い入れはある。
そんな話をする前から、友人は東京行きを黙っていたんだ。なんで、と聞いても仕方ないと頭ではわかっても納得しない。


「あ、あのさあ」


この、なんでもない空気のまま、今なら言えるんじゃないかと思った。
あと少ししたら、夏休みも始まってしまう。
聞くなら今なんじゃないか。


「あの、なっちゃん」

「なに?」


友人はいつもと変わらぬ調子で、私の言葉を待った。

言わなきゃ。いつ聞くんだ。


東京に行くって、本当?



言葉がのどに詰まって、なかなか出ていかない。






その声は私たちと違って低い男子のものだった。


「つ、翼君。おはよ」

「これ、忘れ物」


彼の手にあったのは、塾のテキストだった。
昨日使ったものである。

友人も私と同じく彼の手にあるテキストを見て、順を追って何か言いたげに私を見た。

奪うように彼が持っていたテキストを手にして抱きかかえた。


「な、なんで翼君が」

「机の中にあったのを月島が」

「つ、月島君が…預かってくれたんだ、ありがと」

「それだけ、じゃあ」


彼が立ち去ると、友人はようやく口を開いた。


、塾、行き始めたの?」

「ま、まあ」

「へー」

「な、なに?」

「別に」

「うん」

「遠野と同じ塾、か」

「た、たまたまだよ」

「…知らなかった」

「うん、まあ…言ってないしね」


お互い一瞬黙って、友人が歩き出すのに合わせて私も続いた。

朝講習はいつものように始まって、いつものように問題を解いたりしているうちに終わった。

今日はチャレンジ問題として白鳥沢の過去問が混ざっていた。
やっぱりレベルが違うなと解きながら思う。そんなところに通いたい想いはまるでないのに、なんで受験しないのかと問われると迷いだす。

でも、こんな気持ちのままで受かるレベルじゃない。

私はどうしたいんだろう。


、ここ、できた?」


教室に戻りながら、今日の問題を簡単に説明する。
友人から振られる話題も以前より勉強が多くなった。全部、東京行きのように思えてくる。


、ねえ」

「あ、ごめん」

「最近、ぼんやりすること多いね」

「ん…、まあ」


塾に通いだして睡眠時間が減ったのもあるかもしれない。


「もっと、手抜けばいいのに」


教室がすぐそこなのに友人は歩く速度を落とした。
つられて立ち止まる。


は、いいよね。頭よくて」

「…どうしたの、急に」

「問題全部解けてたし」


確かに友人より1問だけ多く解けたけれど、それはたまたま似た問題を昨日塾で解いていたからだ。


、なんで塾行き始めたの? もう十分じゃん」


そうだね、とも、関係ない、とも返せずに黙っていると友人が再び歩き出した。

こらえきれず、口走ってしまった。



「なっちゃんこそ、…東京、行くの?」


思ったよりも落ち着いて質問できたと思う。
友人は振り返って一瞬だけ驚きの色を見せたかと思えば、浅くうなずいた。


「そうだよ」


ロッカーに向かうから、並んで自分のロッカーに教科書を取りに行った。
顔は向けずにいつも通りを努めた。


「みんなには、言ってたんだね」

「…みんなって?」

「カナちゃんとか、泉くんとかも」

「そういう話題になったから」

「私とも、…そういう話してたと思うけど」


がちっとロッカーのカギをかけた音がやけに響いて聞こえた。


「なんでも、言わないといけないの?」

「そうは、言ってないけど」


ホームルームも始まるから教室に入った方がいい。
同級生の目もある。


だって、塾の事、言ってなかったじゃん」

「それは、つい最近のことだから」

「じゃあ、同じことじゃん」


東京行きと、塾に行き始めたことが同じ?

そんな胸中が表情に表れていたらしく、友人は顔をこわばらせて踵を返した。


「もういいじゃん、こんな話題」


友人が教室の扉を開けようとすると、先に扉が開いて日向君が出てきた。
友人はするりと横を抜けて、教室に入ってしまった。

日向君と目が合うと、私はどんな表情をすればいいかわからなかった。

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