「言ったの?」
チャイムがちょうど鳴った。
重なって届いた日向君の言葉は、友人とのことを指していることがわかってうなずいた。
「ん…、聞いちゃった」
本当に、東京に行くかどうか。
「そっか」
いつもの快活な笑顔じゃない。
困った顔でもなく、ただ、日向君は事実として受けとめてくれたようで、それがありがたかった。
熱の入った態度を見せられたら、それこそ動揺してしまいそうだ。
先生が来たこともあってそれ以上話さなかったけど、前を歩む日向君の背中はきっと問いかければいつだって振り返ってくれるはずだ。
すきだな、こーいうところも。
日向君はクラスの中心にいるけど、端っこにいる人のこともちゃんと見ている。
押しつけがましく“あるべき”論を押し付けてこないで、話を聞いてくれる。
最初、友人の東京行きを話してくれた時も、『どうしてさんが知らないの?』と質問することもなかったし、“ああ、話してもらっていないんだ”という表情も微塵も見せなかった。
そんな気遣いが、うれしい。
先生の話を半分聞きながら、友人ときちんと話ができたら日向君に報告しよう。そう思った。
*
「東京?」
塾に行く前に寄った本屋で、手にした過去問を慌てて棚に戻した。
声の主にはピンときたものの信じたくなくておそるおそる振り返る。
やはりこの人だった。
「つ、月島君」
「へー、音駒高校。受けるんだ?」
「う、受けないよ。見てただけ」
「熱心に見てたのに」
「まさか、ずっと私のこと見てたの?」
月島君を見る、というより見上げる。
彼はいつもと同じようにうなずいた。
「早くどいてくれないかなーって」
その言葉を受けて、自分の立っていた位置から大きく横にずれた。
「どーも」
心がこもっていない言葉に唇を結んで、たまたま目の前にあった他の過去問を手にした。
といっても、塾の自習室が開く前の時間つぶしで来ただけだ。
必要な問題集はすでに買ってある。
ぱらぱらとめくっただけで、すぐ本棚に戻した。
「…えっ」
「なに?」
「あ、いえ」
月島君の前に本を戻したタイミングで、彼が手にしていた本の背表紙が見えてしまったから、つい声が出てしまった。
烏野高校、まさかその表紙の過去問を月島君が持っているなんて。
まさか、まさかこの人も烏野を受験するんじゃないよね、と密かに動揺した。
「君も受けるの? 烏野」
「えっ、いや、その」
「ふーん」
「つつ月島くんも受けるの?」
「ツツツキシマって誰?」
「…つ、き、し、まくんは、受けるの?」
なんでいちいちこういう言い方をするんだろう。
「“も”ってことは、君も受けるんだ」
ということは、月島君も烏野を受けるということ?
塾の講習に通うようになってから知ったが、この月島君という人、口だけじゃなくて頭の回転も早い。
受けるとなればきっと合格するはず、勝手に違う高校を受けるとばかり…
月島君と同じ高校に通う未来を想像して、内心、ショックを受けた。
どうにも月島君は苦手だ。
「待たせてごめん、ツッキー!」
レジの方から月島君と同じ制服を着た男子がこちらにやってきた。月島君が過去問を閉じる。
これ以上、月島君とその仲間(らしき人)と関わるのはごめんだ。
そっとその場を離れた。
今度からこの本屋をのぞく時は気を付けよう。
*
「ツッキー、今の子…」
「同じ講習の人だよ」
「よく…遠野としゃべってる女子だよね」
「そうだよ、ずいぶん鈍そうだから、アイツも苦労するんじゃない?」
*
余ってしまった時間をどうしたものかと思いつつ、適当に英単語帳を眺めて自習室が開くのを待った。
外を歩いてもよかったが、この暑さじゃすぐに汗だくになる。
まだ涼しい建物の中で時間を待った。
「あ、翼君」
「まだ自習室開いてない?」
「さっき人来てたからもうすぐ開くと思う」
私の立つ位置の隣に、同級生の彼が立った。
月島君と同じくらい背が高い。
前ならそれだけで怖い、というか緊張していた。日向君のおかげで少しずつクラスの男子とも話せるようになったから、今は塾の合間や学校では卒アル委員会のことでしゃべったりする。
中学2年の時に、日向君とのことをからかわれた事件?を思い返す。
あれから意識して男子の目を気にしなくなったし、実際日向君もあの人たちに何か言ってくれたんだろうなと思う(直接は聞いてないけど)。
『さん、こいつらもっと女子としゃべりたいんだって!』
『え!』
『おい、日向!?』
そんなやり取りもあっての今だ。思い返すと懐かしい。
日向君が橋渡しになって、クラス全員と話すようになると、日向君と私が話すことも変な目立ち方をしなくなった、気がする。
日向君って、やっぱりすごい。
「」
「!」
「開いたって」
「あ、そだね」
カバンを持ち直して塾に入ると、クーラーの冷気が心地よかった。
しばらくすると月島君たちも自習室に入ってきた。他の子たち(中には中学1年生らしき人)も入ってきて、静かな室内でペン先が走る音が響いた。
勉強しながら、日向君に会いたくなる。
会わなくてもいいから、ちょっとだけでいいからバレーをしているところが見たい。
こんなことを思うのはストーカーみたいかな、と心配してしまうが、恋ってそういうものだろうと結論付ける。
それとも…、ただ、受験から逃避したいだけなんだろうか。
疑問を友人に聞いてもらいたかったが、今朝のこともあってメールも打てない。
そもそも東京に行ってしまったら、こんなことも相談できなくなるかもしれない。
ふと、気づく。
私、さびしいんだ。
色んな事が終わっていくことが寂しい。
塾が終わったのも、終わってよかったと思うのに、一日が終わってしまう悲しさがこみ上げる。
ばかみたいだな、と、馬鹿なこと考えているなと思うのに考えずにはいられない。
*
「あ」
塾の講習が終わってざわつく教室内、私の声に反応して帰るところだった月島君が足を止めた。
早口に告げた。
「て、テキスト。忘れちゃってたの、気づいてくれて、ありがと」
言おう言おうと思っていた感謝の気持ち。
例え相手が誰であろうとお礼は言うべきだというのに、すっかり忘れていた。
月島君は当然笑顔を見せずに言った。
「お礼を言うなら僕じゃなく遠野に言ったら?」
遠野君がいる自習室を目で示した。
「遠野君にも言ったよ」
「そう」
「じゃあ、呼び留めてごめんね」
「待ちなよ」
「え?」
距離を縮められると威圧感を覚えて逃げ出したくなるけど、さすがに行動には移さなかった。
しばらくにらまれていると、月島君が嘆息した。
「な、…なに?」
「やっぱりやめた。じゃあ」
「えっ、な、なんなの?」
言いたいことでもあったのだろうか。急に興味を失ったのか、何なのか、彼が何を考えていたかさっぱりわからない。
にらまれていた余韻で胸がバクバクと動いているのを感じる。
「月島となんかあった?」
「え、ううん…、よくわかんない」
自習室にいたはずの彼が様子を見に来てくれたらしい。
「見つめあってたからどうしたのかと思った」
そう彼に呟かれたから、にらまれていただけだと訂正した。
同じことを別の女子にも聞かれた。月島君も私と同じで講習組?らしく、本当はもっとみんな話してみたいらしい。
私からすれば“どうぞ、ご自由に”だが、話しかけづらいからキッカケが欲しいとかなんとか。
適当に笑ってごまかして彼女たちと別れたけど、勉強疲れの頭にこれ以上、月島君情報を入れたくない。
早く帰ろう。
家庭科部の最後の文化祭に向けた作品作りもやっておきたい。
建物の外はすっかり暗くなってきていた。
早歩きで商店街を進み、今日も疲れたなとため息をついた。
「!!」
不意に肩を叩かれて真横を見る。
「やっぱりさんだ」
日向君が、いる。
びっくりしすぎて声も出せずにいると、道路に停めていたらしい自転車を日向君は取りに行った。
「ど、どうしたの」
「後ろからずっと見てたの気づいてた?」
「ぜっ全然」
「さんぽいなーって思って近づいてみたんだけど、やっぱりさんだったから」
日向君が笑うと、途端に胸がギュッとなる。
「遅い時間まで学校にいたんだ」
「ううん、今日はママさんバレーの日だから」
「あ…、そういえば言ってたね」
「さんは?」
「私は今日は塾で」
「塾!!スゲー!」
「す、すごくなんか」
同じクラスで塾通いの人がいることを話しつつ、バス停まで歩いた。
今日は他にも待っている人がいるから、日向君にはバスが来るまで一緒にいてくれなくて大丈夫だと告げた。
「じゃあ、またね、日向君」
「……」
「…どうかした?」
さっきと違う表情で日向君は言った。
「夏目と、今日、話せた?」
それは興味本位で尋ねられたわけじゃないことはわかった。
静かに首を横に振った。
日向君は自転車を支えたまま言った。
「おれ、いるから」
「え?」
「さんのためになんでもするよ」
「う……うん」
「じゃ、また明日!」
「うん…」
動揺を隠すのに必死で、手を軽く振るくらいしかできなかった。
なんでもするよ、だって。
今言ってもらえたことを誰か録音してないのか。
バスが来るまで、揺られる車内の中で、家に帰ってからも、日向君からもらった言葉を何度も思い出して記憶にとどめた。
next.