ハニーチ

スロウ・エール 37



日が高く、今日も暑い。
これだけ暑いのに夕方から天気が大きく崩れると天気予報が言っていた。
うんざりする熱気が和らげばいいと祈りながら、見えてきた体育館に近づいた。
試合は午後からだ。

北川第一VS光仙学園、中総体の決勝戦が今日行われる。


「えーっと…」


あらかじめ印刷してきた紙を広げて、入り口を確認する。

辺りを見ると、さすがに決勝戦とあって両校ともに応援しに来ている生徒が多い。
私服で来てよかった。制服だとどちらでもない自分は目立つだろう。

にしても、知り合いがいないから、今更ながら気分が落ち着かない。

熱心な保護者が応援にも来ている。横断幕もある。
また、あの声掛けも聞こえた。

『北一!北一!』

それだけで、日向君たちの初戦を思い出させるには十分だった。


「!」

「すみませ、…!!」


横から何かがぶつかったと思えば、まさか。


「「なんでここに!」」


二人して口を押えた。もう一度相手を確認する。見間違えるはずがない。


「つ、月島君…なんでここに?」

「それはこっちの台詞だよ。どうしてこんなところに」

「そ、そっちこそ」


不意に月島君を呼ぶ声が聞こえた。
話を続けても仕方ないから、短く挨拶を告げて足早にその場を去った。

なんで、月島君がここにいるんだ。

いや、いる理由はわかる。試合を見に来たんだろう。
この体育館のそばに塾はない。もしくは、家が近いとか?
だったら、自分と同じ塾に通うはずがない(距離がそれなりに遠い)。

ふと一つの考えが浮かぶ。

月島君も、バレー部…?


「き、決まったわけじゃないし」


小声でつぶやいて、早く建物の中に入った。
座席を探そう。その前に飲み物を買おう。
自販機を探すことに意識を集中させよう。

ほら、あった。
何を飲もう。


今度は背後から黄色い声が響いた。


いや、それより自分の飲み物が先だ。もうすぐ試合が始まる。
小銭を入れて赤くランプがともった商品をじっと眺めた。
こんなに暑いのにコーンスープがまだあるんだ。味噌汁もある。誰が頼むんだろう。

迷い箸ならぬ迷い指をしていた時だった。


「ぐは!」
「わっ」


ピ、…ガタン。


うそ。


背中に走った衝撃より、大きく音を立てて落ちてきた缶を取り出した。
あ、あったかい。
うそでしょ、まさかの味噌汁…!


「ちょっと岩ちゃん!!」

「悪い、大丈夫か?」


って、私!?


「そっちに謝んの!?」


い、いつぞやのジョニーズ事務所の人が足元にいた。
先ほどの黄色い声を発していたらしい女子達が『及川さん大丈夫?』と様子をうかがっている

その及川さんが声をかけた大きい人は真っ直ぐにこちらを見ていた。
その人の視線が私の手元の味噌汁缶に落とされる。
指は熱い。けど、よくわからないこの展開を前に身じろぎ一つできなかった。

その人はおもむろに小銭入れを取り出して、自販機に入れた。


「どれだ」

「え…」

「その缶、こっちがもらうから、好きなの買えよ」

「いや、でも」

「それ、飲みたかったのか?」

「…いいえ」


おとなしく本当に欲しかったお茶のペットボトルのボタンを押した。
その人がすかさずしゃがんで飲み物を差し出してくれた。


「ほら」

「あ、ありがと、ございます」

「こっちが悪かったから」

「岩ちゃんやっさしー」

「元はと言えばお前のせいだろ。ほら、150円」

「請求こっち!?」


及川さん、と優しかった人の間で味噌汁スープ缶が行き来する。
おずおずとその場を離れて、座る位置を探した。

北川第一が見える位置がいい。

予想もつかない展開に浮足立つ心地がしながら腰を下ろすと、ようやくほっと息をついた。
買ったばかりの、いや買ってもらったばかりのお茶を口にした。

はあ、なんなんだ、この展開。
ただ、北川第一の試合を見に来ただけなのに。

そういえば、雪が丘バレー部の1年生も見に来ているんだろうか。
辺りを見回してみたが、それらしき姿はない。月島君の姿もないから胸をなでおろした。

既に両校が試合に向けてアップ練習をしている。


「あれ、味噌汁の子」

「今飲んでるのはお前だろ」

「岩ちゃん細かい! ここに座ろう」

「あっちで応援しなくていいのか?」


ここは北川第一側のコートの真後ろだ。

少し間をおいてから、及川さんは『ここでいい』と短く告げた。


な、なんでここに座るんですか。
自分の方が移動しようにも、あなたたちが来たから移動します、というのがバレバレで嫌味だろう。飲み物を口実に席を立つこともできない。

もしかして、この二人は北川第一中学出身なんだろうか。
横目で確認すると彼らの校章は見たことがあった。確か、青葉城西だ。バレーの強豪校だったはず、白鳥沢の次くらいに。


「何見に来たの?」

「え」

「女子一人でこんな席に座って」

「決勝戦に決まってるだろ」


岩ちゃんと呼ばれている人が代わりに答えてくれた。じゃなければ、答えに詰まった。
でも、そうだ。
決勝戦を見に来た。ただ、それだけだ。
脳裏によぎるあの一戦を思い出すためじゃない。


「始まるぞ」


コートを見ると選手たちが整列していた。もう始まる。

一度きりの、最後の試合。






*






「もっと早く!!」



あの人の声がここまで届いた。
たくさんの声援の中で拾ってしまう、声。

影山、という選手だ。北川第一のセッター。

北川第一と光仙学園はお互いに一歩も引けを取らない様子だ。
すぐにセットがとられてしまうかと思えば、また相手のリードへと移り変わる。

今はあと一歩で点が取れるところを、影山君のトスを誰もとることができずに終わった。

彼は憤慨しているようだった。
いや、勝ちたいだけだろうか。ここからじゃ、よくわからない。

両者ともに苦しい展開だ。


早く、早く決まればいい。

勝ってほしかった、かもしれない。北川第一に。そのうちに、ボールが空を切った。

影山君のトスは、誰も追いつこうとしなかった。ものの、見事に。



「…及川?」

「もういいよ、ここまで見れば見たことになるしね」

「まだ試合、終わってねーぞ」

「あんな王様の独裁ぶりを見たら…、見なくてもわかるよ」


つい、声のする方を見てしまうと、ジョニーズ事務所、じゃない、及川さんという人と目が合った。



「じゃあね、ミソスープちゃん」


謎のあだなをつけられてしまったことも気にかかったが、選手交代の方に意識を奪われた。

影山君が選手交代させられていた。

あんな、トスを出せる選手を変えるんだ。


「…独裁ね」


岩ちゃん、という人がその言葉を口にした。


独裁?


私には、彼の悲痛な叫びのように見えていた。誰もついてきてくれないトスは、誰よりもスパイカーを求めているようだったから。



試合は、終わった。


勝ったのは、光仙学園だった。




*





早く帰りたかったけれど、万一月島君にばったり会っても、という気がしたし、うちの学校に勝った北川第一が負けてしまったこともあって、なんとなくダラダラと体育館に残ってしまった。

そろそろ人気も少なくなったし、帰ろう。

雪が丘中学バレー部が負けた時と同じわけではないが、自分が応援していた方の学校が負けてしまうと気落ちする。

誰かが勝って、誰かが負ける。

勝負の世界は身にしみてわかっているはずなのに、こうして現実を突きつけられると、切なくなる。
哀しいのかな。


なんとなく人が少なそうな出口から外に出ると、外は今にも雨が降り出しそうな雲で覆われていた。
早く帰った方がいい。
この蒸し暑さもうんざりだ。

走ろうと思った、その足は、ついぴたりと止まった。

あの、後姿は……北川第一の影山君だ。


近づいてみるとやっぱりそうで、つい目が離せない。

彼はベンチに座っていた。
たった一人で。

どうして一人なんだろう。今日は決勝戦が終わったんだから、チームのみんなで何かしらあるだろう。
ご飯を食べに行ったり、今日の試合を振り返ったり。

それとも強豪校だとあっさり終わるんだろうか。


自分の少ない経験からはわからなかった。
もういい、行こう。

そう思った時、空からぽつりと水滴が降ってきた。
雨だ。

天気予報通りだ。

どんどんとその雨粒は大きくなっていく。まっすぐ直線的に降ってくる雨だ。

慌てて建物の屋根があるところに逃げ込んだ。傘は持ってきたけど、先に雨宿りだ。



「…あれ」


ベンチに座るその人はさっきと変わらず動いていない。

こんなに、雨が降ってるのに。


風邪、ひかないのかな。
いや、引くよね。試合が終わって汗かいて、そんな時に雨に打たれるなんて、体に良くない。

暑かったから、シャワー代わり?とも思ったけれど、どうにも影山君が気にかかって仕方ない。
誰かいないんだろうか、北川第一の人は。

辺りを見回しても、そもそもこちらの出入り口を使う人はほとんどいない。
バス停だって反対の出口のすぐそばだ。


じゃあ、なんで、影山君はここに一人でいるの?










「あの」


声をかけてしまった。

ああ、もう。
変に思われる。

そう思っても彼を放っていけなかった。見てしまったら、無視できない。人としてできなかった。

背後から、自分の傘で、影山君にかかる雨を少しでもよけてみる。
自分が濡れたっていい。この人は、バレーボール選手だ。


「風邪、引きますよ」


雨が少し弱まった。
でもこの調子じゃいつまた強まるかわからない。


「あの…?」


反応がないその人の顔をそっとのぞき込む。


ね、てる。

この状況で寝てる!?


信じられなかったが、確かに影山君は寝息を立てていた。

雨が降ってるのに寝てる?


「あ…」


すごく、疲れてるんだ。
そりゃ最後交代させられたとはいえ、あれだけのトスを打ち、時にスパイクを打ち、あのサーブを打っていたんだ。

あの、観客すべてが見つめるあの大舞台で、セッターを務めたんだ。






「……あの、返さなくて、いいです」


声をかけたその人が寝息を立てたままでよかった。
一応、言葉をかけただけだ。傘を、そっと彼の肩に引っ掛けた。

びしょ濡れになる。あの傘、お気に入りだけど、もういい。
だって、あのまんま寝てたら風邪ひくし。

靴がぐしょぐしょになって気持ち悪いなと思いながら、バス停へと走った。

影山君はどこの高校に行くんだろう。

日向君とまた戦う日が来るのかな。




next.