ハニーチ

スロウ・エール 38




「公害」


開口一番に言い放たれたのは、その一言のみだった。

月島蛍という人は、どうしてこういう言い方をするんだろう。
わざわざ避けたというのに、バス停に行ったら、月島君たちと出会ってしまった。
長い行列ができていて十分に間をあけたはずが、折り返し地点でまさかの顔合わせだった。


「傘ないの?今日の天気予報も見なかった?」

「うっ…、ほっといてよ、あっち向いてれば」


自分でも自覚している。
傘はさっき影山君のいたベンチに置いてきたから、必然的にびしょ濡れ状態、ましてずっと走ってきたから雨と風で髪もぐじゃぐじゃだ。
反論しようがない。


「いや、でも…ほんと、何か着る物ないの?」


えーっと、確か山口君だ、山口君。たぶん。
月島君の後ろに並ぶ山口君がソワソワと言葉を発した。

残念ながらこんな暑い日に上着を持ってこようとは思わなかった。

山口くんが『自分も持ってきていない』と独り言のようにつぶやいた。


「!」


押し付けられたものを反射的に受け取った。



「クリーニング忘れないで」

「は?」

「見苦しいのを何とかしたいだけだから」

「な!」


会話にもならずに苦々しい表情で月島君は言い捨てると、バスの列の進みに合わせて行ってしまった。月島君とこちらを山口君が交互に見やる。

私の手元には、月島君に押し付けられたジャージの上着。


「!!」


ちょうどバスの横に並んでうっすらと映った自分の服が透けていることに気づいた。
まずい。これは、まずい。

大慌てで月島君から借りたジャージを羽織った。
ちょうどバスの上の月島君が窓越しに見えて目が合った、かと思えば速攻で視線をそらされた。

な、最初からそう言ってくれればいいのに!

そう思ったけど、男子だし、そりゃ言えないよねと結論づく。
せめてもう少し生地がしっかりした服にすればよかった。下着の色も見えていたんだろうか…、いや、見えてたんだろうな。ああ、もう。

バスが来る間も羞恥心にかられながら、一応は服を貸してくれた月島君に借りができてしまったこともしゃくで仕方なかった(でもやっぱり感謝しかない、恥ずかしすぎる、のループ)。




*





「あ!」

さんっ」


日頃の行いがいいんだろうか。バスを降りたら、自転車に乗った日向君が向かいからやってきた。
制服だ。きっと補講帰りだろう。
雨はもう止んで、夕焼けの時間だった。


「どうしたの?」

「あ、いや、ちょっと友達と遊んで…」


反射的に嘘をついてしまったのは、やっぱりあの試合がよぎったから。
まさか北川第一の試合を見てきたとは言えなかった。


「すごいびしょぬれじゃん」


あ、そっちか。

傘を忘れてしまって、というのも嘘を重ねてしまうため、言いよどんだ。
バスの中でハンドタオルを使ったものの、とても足りなかったようだ。

くしゅ、とくしゃみしてしまうと日向君がカバンからタオルを取り出そうとしていた。


「あ!いいよ、全然大丈夫、上も着てるし」

「そっか!……それ」


日向君がじっとこちらを見る。
よくよく見ると、いや見なくとも、これが雪が丘中学のジャージじゃないのは丸わかりだ。
しかも、月島君のジャージとあって、裾が非常に余っていた。
かなり不格好なのは認識している。


「と、友達が貸してくれたの。びしょ濡れすぎて、アハハハ…」


ごまかすように笑ってみたけれど、かえって自分が滑稽に思える。


「そ、それより、日向君は補講?」

「あ…、ううん。今日は一年見てきた」


確かに日向君の自転車には学校のカバンだけじゃなく、ジャージを入れた袋もあった。
体育館なら雨が降った方が多少なりとも涼しいだろう。

そっか、一年生はバレーやってたのか。

決勝戦を見に来なかった理由がバレーだとしたら、少なからず嬉しい。


さんっ!」


いきなり日向君が大きな声で呼ぶものだから、なぜか背筋がシャンとした。


「そ、その服は、…その、あの、えーーっと」

「服?」


改めて自分の服を見下ろした。
まさか値札が付いてるんじゃないよねとスカートの裾をチェックした(幸い値札はついていない)。

日向君は支えている自転車さえ傾く勢いで続けた。


「だ、誰の、かなって…」

「え?」

「……」


さっきより小さな声で聞こえなかった。
日向君は早口で言った。


「な、なんでもない!なんでもない…、あ、コロッケ食わない?」

「う、うん…」


すぐそばのお店に肉屋さんがあって、お惣菜のコロッケをなぜか食べることになった。

日向君の質問が気になったけど、なんでもないと言われたら仕方ない。

お店のおばさんが差し出してくれたコロッケは揚げたてで、さくっとおいしかった。

これから始まる夏休みの予定を話している最中も、やっぱり日向君は私の服を気にしているようだった。



「じゃあ、私こっちだから」

「うん…、じゃあ」


日向君が自転車を押して、私は反対方向のバス停を目指して歩く。

聞けばよかったかな。
さっきの、なんだったのって。




さん」

「!!」


分かれたはずの日向君がすぐとなりにいた。

どうしたの、とはびっくりしすぎて声に出せなかった。



「や、やっぱり気になるから聞くんだけど、そのジャージ、か、か、彼氏の?」



脳裏にジャージの主が浮かんで、間髪おかずに答えた。


「全然!!! た、ただの、知り合い」

「そっ……かあ」


日向君ががくりと頭を前に倒して息をついた。



「そっかー、知り合いの、なんだ…、そっか」

「な、んで」

「へ?」

「いや、ううん…」


今度は、私の方が気になってしまう。

なんで、そんなこと、聞くの?って。

ドキドキと鼓動が早まる。
熱が高まる。


いっそ日向君の方からバイバイしてくれればいいのに。
気恥ずかして俯くと、日向君の方もしばらく黙ってしまった。



「もしおれがいる時ならさ。…か、貸すから」


そっと顔を上げると日向君は頬をかいていた。


「ジャージ。俺のやつの方が、たぶん、さんの着てるやつよりかは…着やすいだろうし」

「う、うん……ありがとう」

「ご!ごめん、なんか。……おれ、今日、変だね!」

「いや、全然…」

「いやっ、変だよ。なんか、すげー、こう顔熱いし」


それなら私だって熱かった。いっそジャージを脱いでしまえればいいのに。
日向君はバタバタと来ていたシャツを揺らした。


さん、時間あったらさ、またどっか行こう」

「水族館?」

「とか!」


いくつか水族館の思い出を話しているうちにいつもの調子を取り戻せた気がした。
結構話したはずなのに、空はまだ明るかった。

帰りのバスで、ほっと一息をついて、日向君のことを思い返す。
余った袖のジャージを軽くなでた。


気にしてくれたのかな。誰のジャージを着ていたかって。それって、もしかして……いや、まさか、ありえない。


また顔が熱くなってきたので、目を閉じることにした。

帰ったらジャージを洗濯しよう。傘はなくしたってことにしよう。
その内に程よい眠りに落ちた。




next.