月島君から借りたジャージは早急に洗濯をして、速やかにご本人にお返しした。
お礼にお菓子を添えて。
夏だし、そんな間柄でもないので手作りはせず、塾の近くのコンビニで買ったチョコレートにした。
「この真夏に……」
と、いう微妙な表情で月島君は受け取ってくれた。
そうですね、チョコは夏は溶けますね。気が利かずすみませんね、と嫌味を言いたくなりつつも、心は広く持たないと、と切り替えた。
このジャージのおかげで、日向くんからあんなこと言ってもらえたんだから…
「なにニヤニヤしてるの、気色悪い」
「!!ち、ちょっとね」
「興味もないけど」
だったら、ほっといてよ、と内心思いながら、これ以上思い出してにやけないように参考書を開いた。
平常心、平常心だ。
と思っても、日向君と会った時のことを思い出してしまう。
“や、やっぱり気になるから聞くんだけど、そのジャージ、か、か、彼氏の?”
それって、少しは、ほんの少しは、可能性があるって…いや、いやいや、ありえない。
「、何かあったの?」
「知らない。関わらないほうがいいよ」
遠野君と月島君、両サイドで話していることが耳に入っていながらも、机に突っ伏したまま動けなかった。
嬉しさと、ふわふわとした擽ったさが織り交ざった幸せ。
夢なら覚めないで、とどこかで歌われているようなことが浮かびながら、講師の人がやってくると顔を上げた。
ふわふわとした気持ちそのままに、明日は学校の講習がある。
イコール、日向君に会えるかもしれないってことだ。
*
「先輩、ちょうどよかったです!」
夏休みも始まって少し久しぶりの学校、真っ先にあったのは家庭科部の後輩だった。
なんでも家庭科室が学校の工事の関係で一部使えない期間があるらしい。
先生から手渡されたらしいプリントを受け取った。
「夏目先輩、来てます?」
「うん、一個前のもを受けてるから。あ、プリント、私が渡しとこうか?」
「いいんですか!」
次の講習も友人は受けるはずだから、その時にでも渡せるだろう。
後輩は顔を明るくしてプリントを差し出した。たやすい御用だ。
「先輩はなんか余裕そうですね」
「え、何が?」
「夏目先輩、なーんかピリピリしてるっていうか……、一昨日会ったときもちょっと不機嫌っていうか、受験生って大変ですね」
「まあ、色々あるよね」
色々、にさまざまな意味を込めて思いをはせた。
「あ、なっちゃん」
「夏目先輩だ」
ちょうど廊下の奥の教室から友人が出てきた。
手を振ってみたものの、この距離だとすぐには気づかない。
「あ、渡しておくから!」
後輩に断って廊下を少し早歩きで歩いていく。
一瞬、目があった気がした。また、教室に入ってしまった。
避けられた?
小さな不安が掠めるけど、日向君にもらった勇気があるから、また一歩足を進めた。
「なっちゃん!」
声をかけると友人はルーズリーフをまとめる手を止めた。
「なに?」
「家庭科室、工事で使えない日があるって」
「そっか、……ありがとう」
後輩の言葉を思い出しつつ、今日の友人は不機嫌、というより疲れているように見えた。
「なっちゃん、大丈夫?」
「何が?」
「顔、ちょっと疲れてるよ」
「うん……、準備が忙しくて」
「講習いっぱい受けてるもんね」
「いや荷物……、……塾のテストが重なってて」
「……」
友人はあくびをして違う話題を口にしたけど、荷物とは、きっと引っ越しの荷物のことだ。
これまで東京行きに関わりそうな話題は一切口にしていなかったけど、今日はつい漏らしてしまうくらいに本人も疲れているのだろう。
「頑張りすぎないようにね。となり、いい?」
「ん……、いいよ」
今日はいつもの友人のように感じた。
つられて自分も前のように話せている気がする。
「ね、今日一緒に帰らない?」
そうしたら、仲直りできそうだと思った。
今日の私たちならきっと、落ちついて話ができる。
友人も私と同じように表情を緩めて返事をしようとしたその時だった。
「、ちょっと」
先生からの呼び出しだった。
*
「けいちゃん!」
「乗れっ」
迎えに来ていた車に飛び乗ったのは、受けるはずだった講習が始まる頃だった。
従兄がすぐに学校に迎えに来てくれたからだ。
さっきの先生の呼び出しは、母親からの電話だった。
『落ち着いて聞いてね』
あんな母親の切羽詰まった声を聞いたことがない。
『おじいちゃんが倒れたの』
母親の方が落ち着いてほしかった。いつものお母さんの声であってほしかった。
おじいちゃんが倒れたのは、烏野高校の体育館で、らしい。
高校バレー部の監督をまたやり始めていたのは知っていたけど、こんなすぐ何かが起こると思っていなかった。この間、退院したばかりなのに。
『繋心くんが迎えに行ってくれるって言ってたから……、も早く、来てね』
母親は私が講習があることを知っていたから、それでも早く来るように、ってことは、何かが起こるかもしれないってことだ。
「落ち着けよ、落ち着け」
車が赤信号で止まった。
従兄は自分に言い聞かせているようだった。
みんな同じなんだ。祖父が心配で、その心配を共有している。ドキドキと心臓の音を感じる。心臓ってこんな音もするんだ。
もし、もしものことがあったらどうしよう。
「、乗せてんだ……」
ふう、と従兄が大きく息をついた。信号が青に変わった。
車がゆっくりと動き出す。心なしか従兄の運転がさっきより丁寧になった気がした。横目で見る従兄もまた不安そうに見えた。
前に祖父が入院していた病院に近づいていく。
どんどん怖くなってくる。
おじいちゃんと、もう会えなくなったらどうしよう……!
病院に着いて、必死に従兄に追いつきながら看護師さんに言われた部屋を目指した。
「、ごめんね」
母親が泣きはらした顔を手でおおった。
「も呼んだのか」
祖父はあきれた様子で頭を横に振った。
点滴を打たれていたけれど、おじいちゃんはしゃんとしていた。
母親に抱きしめられて、ようやく、今のこの状況を理解できた。
ともかく、大丈夫だったんだと。
「おばさんのそばにいてやれ。こっちは俺がなんとかするから」
従兄に言われて、まだ落ち着きを取り戻し切れていない母親のそばにいた。
こんな時、従兄はとても頼もしい。
母親もそう言った。
なんでも、命にかかわるほどの話ではなかったらしい。
だから、母親が親戚にいろいろ電話をかけてしまったことを祖父が嫌がったらしかった。まして、私が夏休みの講習を休んでまできたことを気にしたらしい。
でも、仕方ないことだ。母親も、祖父のことが大好きだから。
「、……その靴」
「あ……」
病室の外のベンチで眺めた足先は、ローファーじゃなくて上履きだった。
職員室で電話を受けて、そのまま昇降口に向かって、履き替えることをすっかり忘れていた。
でもよかった。それで母親が笑顔になったなら。靴は明日でも履き替えればいい。上履きだって靴だ。歩いて帰れる。
「、送りますよ」
少し経ってから母親と従兄の役割がバトンタッチになった。
今度はいつも通りの運転を従兄はした。
「寿命、縮んだな」
「そう、だね」
そういえば、烏野高校の人からも電話が来ていた。もしかしてバレー部の人かもしれない。
「ねえ、けーちゃん」
「ん?」
「おじいちゃん、……バレー、やめるのかな」
病室のベッドの上にいた祖父を思い返す。
しばらく間をおいてから、従兄は言った。
「やめないだろ」
私は自分勝手だ。元気でいてくれるなら、バレーなんてしなくていいと思ってしまう。
バレーは祖父の何もかものようだと知っているのに。
もうすぐ家に着きそうだ。
「けーちゃん、病院、戻るんでしょ?」
「ああ、おばさんも送らないとな」
「ありがとね」
「いや、いてくれて助かってんだ。じいさんも口じゃあ、ああ言ってるが感謝してるぜ」
「なら、いいけど……」
「暗い顔すんなよ。しばらくは病院だろうが、休めばまた大丈夫って医者も言ってたんだ」
わかっていても、気持ちが追いつかないときがある。
従兄が車を止めた。
「友達、来てんじゃないか?」
車を降りて言われるがままに顔を上げると、一緒に帰ろうと言ったまま別れた友人が二つも学校カバンを持って立っていた。
「なっちゃん……」
「じゃあな」
「あ、うん」
従兄の車が来た道を戻りだす。
私は反対に家に近づいた。その玄関に友人が立っている。
「ど、したの?」
「、カバン、持っていかなかったから」
「うん…」
「靴も」
「うん……」
「それと、おじいちゃん、大丈夫だった?」
「あ、うん。なんか、部活の時に倒れたみたいで……、もう大丈夫みたい」
「そう、よかったね」
「なっちゃん、わざわざ……ありがとう」
「ううん、持ってきただけだよ」
「重いのに」
「私のよりは、その、軽いから」
友人から受け取った荷物はやっぱり重かった。
今日は資料集が入っていたから重いことをよく知っていた。
「これから夏期講習じゃない?平気?」
「」
友人は唇をかんだ。
「ごめんね」
唐突に発せられた謝罪は、病院で聞いた母親のそれとも似ているようだった。
取り乱した時に発せられるその言葉は、もちろん本来の謝罪の意味もあるけれど、本人が自分に向けた懺悔でもある。
友人が泣きそうになりながら、何度も「ごめん」と繰り返すから、私もつられて目頭が熱くなった。
お互いにわかっていた。本当は、もっと、もっと前にこうやって謝りたかったこと。
「に、嫉妬した」
「嫉妬?」
「私、いくらやっても合格点取れなくて……」
突然決まった東京行きの話、そりゃ両親と過ごせるほうがいいにせよ動揺する。
気持ちの焦りに重なって成績不振、とくれば、誰だって余裕はなくなる。
「に甘えてた。つい、イライラしてぶつけて。ずっと……東京行くこと、言えなかった。私も、とおんなじ高校、行きたかった」
また泣き出す友人の肩を撫でた。
その気持ちは、よくわかる。
私も東京行きを知った時に悲しかったのは、教えてもらえなかったことよりずっと、一緒にいられないことだった。
「ばかみたい。自分の事でいっぱいで。も、わけわかんないよね、キレられてさ。つい、意地はって」
「いいって。私も、つい、意地張ってた。なんで教えてくれないのって。本当は、なっちゃん、同じ高校いけないかもって前にそれっぽいこと言ってたもん」
でも、深追いはしなかった。知ってしまったら、違う道に進むことを自覚することになるから。私も、逃げていた。
友人は鼻をすすって顔を上げた。
「今日、ここ来たの。日向に言われたからなんだ」
「え?」
「もちろん私も気になってたけど、やっぱり喧嘩っぽくなってたから何もできなくて。そしたら、日向がが荷物持っていくの忘れたみたいだって教えてくれて。困るだろうから行ったほうがいいって」
*
『日向が、持っていったら?』
『いいの?』
『……』
『夏目は、それでいいの?』
*
友人は目元をぬぐって、いつもの表情に戻っていた。
「あいつさ、ほんと、よく見てんね」
友人の言葉にうなずいた。
日向君は、本当に、クラスのみんなを見ていてくれている。
「、怒られるよ」
「え、誰に?」
「日向に」
「えっ」
「日向が見てんの、でしょ」
「……え?」
誰が、誰を見ているって?
言われたことが頭に入ってきているはずなのに、まったく理解できない。
友人がすっきりした様子で笑った。
「だって、ぜったいスキじゃん、のこと」
「!や、めてよ、からかうの」
「からかってないよ、最近、特にそうじゃん。わかりやすいじゃん」
「な、なにが?なっちゃんどしたの?最近、日向君としゃべったりしてないじゃん」
「わかりやすいもん。絶対のこと意識してる」
以前の調子で友人に断言されると、否定の言葉しか出てこない。
誰が、誰を好き?
そんな期待してしまったら、もし違っていたら、どんなにショックを受けるだろう。
今更ながら、その万一の可能性がよぎることが怖かった。
日向君に嫌われていない。ちょっとでも好意的に想われている。その事実だけで満足していた。
「が日向を好きになったように、向こうだってを好きになっておかしくないでしょ」
「…ありえ、ないよ」
「なんで?」
「……釣り合わないもん」
「それはむしろあっちの方じゃないの? 今日も追加補習受けてたし」
「…ひ、なたくんの良さは、学力じゃないし」
言葉にしながら、いかに自分が万一の可能性を考えようともしなかった理由に行きついた。
「さ、もっと自分に自信もちなよ」
わかってる。わかってるんだ。
私は、すごく、自分が信じられない。
いくら勉強したって、部活をやってみたって、心の底からしたくてしているわけじゃない。これが自分の意見だと言い切れない。
堂々と意見を言いきれる友人の方がずっとずっと素敵に見える。
「日向がのこと好きになっても全然変じゃないよ。私、保証する」
「なっちゃん、変な保証いらない」
「嫌なの? 日向がの事好きになってたら」
「嫌なわけ…」
「じゃあ、いいじゃん」
「もーー、なっちゃんの当て勘じゃん。はずれてたら私ショックじゃん」
「今度会ったとき、よく見てみなよ。前と違うから」
「え?」
「日向、の前だと違うんだよ、全然」
思ってもみない話題を最後に、友人を見送った。
使い古した上履きで玄関に入ると、どっと疲れてしばらく動けなかった。
そのとき、携帯にメールが入った。それが日向君からで、なんでかすぐに開けなかった。
next.