ハニーチ

スロウ・エール 42







夏期講習も終わった午後の図書室は、とても静かだった。
日差しはまだ高くカーテンの合間からは夏のまぶしさがあふれていたけれど、私が気になるのは目の前に座っている日向君。

ちら、と視線を上げる。

向かいに日向君が座っている。

たったそれだけなのに、気持ちがソワソワする。
集中しなきゃいけないのにな。日本語にしてください、と書かれた英作文の問題を見てはつい相手の様子をうかがってしまう。


お……、起こすべきなんだろうか。


目の前の日向君は振り子のように揺れていた。

うとっ、うとっ、

右へ、次また左へと揺れている。
絶妙に倒れないところが日向君のバランス感覚の良さなんだろうか、と変なことを考えてしまった。

こういう時って、いっそひと思いに寝てしまった方が勉強の効率も良くなるんじゃ?

でも日向くんすごくはりきってたし……、『さんは見てて』って言われたし……、いやでも、見ててほしいのってこういうところじゃないよね、たぶん!?


「ふぁッ?!」

「!!」


気がそぞろな状態で英語の続きをやっていたら、日向君の声がした。
今、起きたみたい。たぶんキョロキョロしてる。きっと、今、図書館にいるってわかったはず。
どんな顔してるから。あ、見つかった。

一瞬照れた様子を見せて、がくっと日向君は机に突っ伏した。
と思えば、シャキッと立ち上がって、ガタッと椅子を引いた。


「ちょっと見ててっ」


こくり、と頷く。
この『見てて』は、日向君を、じゃなくて、日向君の荷物を、という意味だ。

目で追うのは日向君の背中、ではなくて、開きっぱなしの日向君のノートだ。
どうやら数学をやっていたらしい。途中になっている計算式の一つ一つに見覚えがあった。

これ、烏野の過去問だ。

やっぱりそうだ、ノートの隣にあるプリントに『烏野高校 入学試験』って書いてある。


「……そう、だよね」



ため息をつくように誰にも聞こえない声量でつぶやいた。

そうだよね、日向君は烏野に入りたいんだ。
入って、バレー部でバレーするんだ。

わたしは、どうするんだろう。

また一つため息をつく。


「寒い!?」

「うっううん」


横から日向君に声をかけられてびっくりした。
一瞬だけ、触れていもいないのに夏服越しに日向君の熱を感じた。すぐに向かいの席に移動しているけれど、確かにあたたかかった。

冷房の効いている部屋にずっといるからだ。

日向君はずいぶんとすっきりとした表情だった。


「顔洗ってきたっ。これでばっちり」

「それならよかった」

「ねえ、おれ、いびきかいてた?」

「大丈夫っ、左右に揺れてただけっ」

「左右に!?」


あんまりしゃべっていると図書委員の子たちに追い出されてしまいそうなので、すぐにお互い黙った。
今度は向かいから鉛筆が滑る音がする。消しゴムのこする音も。

さっきから英語が進んでいかない。

集中しなきゃ。

宿題はさっさと終わらせて、受験生にならなくちゃ。





「はーーー、眠かった」

「睡眠不足?」

「かなあ、でもその割に全然問題解けてないけど」

「ははっ」

「あ、待って。本返そうと思ってたんだ」


廊下で日向君が図書館へUターンしていく。
ごそごそとカバンから取り出されたのは、バレーの本だった。古そうな表紙だった。

図書委員の子に何か言われているようだったけど、しばらくしたら日向君がやってきた。
ばつの悪そうに頭をかいて日向君は言った。


「怒られた」

「そんなに遅れたの?」

「3日」

「ああ、先生だけなら大目に見てくれたかもね」

「さっき返せばよかったっ」

「何の本?」

「バレーのルールの本、また読みたかったから」

「そっか」

「でもさ、どの本も書いてあることは一緒だったよ」


日向君が、バレー初心者向けの本を持っていたことは知っていた。
本を読んでもバレーはできない。


「今から商店街行ったら早いかな」

「どうだろう」


二人で昇降口から校門へ向かう。
なんだかねっとりと纏わりついてくるような暑さだった。
さっきまであんなに晴れていたのに、雲が厚い。ついでにゴロゴロと雷の前触れみたいな音もする。


「雨、降ってきそうだ」

「日向君、自転車だよね?」

「カッパ持ってきたっ」

「準備いい!」

さんは?」

「折りたたみ傘が、あっ」

「んっ?」


言ってから、自分の折りたたみ傘は北川第一のセッターの人にあげてしまった(置いてきてしまった?)のを思い出した。
あの後、新しい折りたたみ傘を買えてない。買おうとは思っていたんだけどなあ。よりにもよって今日忘れるなんて。
恨めしく空を見上げても晴れる気配はない。
夏のこういう天気って降るときは一気に降るから困る。


「あの花柄のやつ、ないの?」

「うん……、ちょっとなくしちゃって」


正直に話せるわけもなく、つい適当にごまかしてしまった。


「おれの傘、使う?」

「いいの?」

「うん、おれはカッパ着るし」

「あ、いいよっわざわざっ」


日向君がせっかく来た道を走って戻っていく。
でもさすが日向君、あっという間に昇降口の方だ。


「だいじょーぶっ、さんは待っててっ」


もう姿は見えない。

せめて荷物だけでも持たせてもらえばよかった。日向君のカバン、なんだかいろいろ入ってたみたいだし。


それにしても、優しいなあ……日向君ってやっぱり優しい。


すき…、やっぱり、すきだ。


じんわりと胸に芽生えるあたたかな何かを感じてみる。
暑さとは違うこの感情は、べたつく空気の中でも、確かに幸福を芽生えさせた。



「お待たせっ」


日向君が手にしていたのは、黄色の傘だった。
小学校の時にお世話になった色で、懐かしさを覚える。


「こんなんだけど大丈夫!?」

「全然っ、これなら車にも引かれないっ」

「だね! おれは使わないから家まで持ってていいよっ」

「あ、でも」

「ん?」

「今日借りたら返すの夏休み明けになっちゃう……」


ずいぶんと日が空いてしまうのが気にかかった。
日向君は間髪入れずに言った。


「もう学校来ない? 新学期まで」

「えっと……」


家庭科部の作り物もあるし、卒業アルバム委員の仕事も少し残っている。
家で進めてもよかったけど、学校に来てやってもいい。


「日向君は?」

「先生に来れないって言われてる以外の日は来る!」

「そうなんだ、じゃあその時、持ってくるね。連絡するよ」

「ん、待ってる!」


日向君から受け取った傘は、ひらがなで「ひなた しょうよう」と掠れたサインペンで書かれていた。
持ちがところどころ傷ついていたから、けっこう落としたりしたのかもしれない。

日向君が自転車を押して、私は傘をしっかりと持って見慣れた商店街のほうに歩いていく。
とはいえ、いつ雨が降ってもおかしくない天気だ。
行く途中の町の掲示板にチラシが貼ってあって、今日のお祭りのところには『雨天中止』と明記されていた。

このままお天気、持ってくれればいいんだけど。


「ゴロゴロ言ってる……」

「雷の音、聞いてるとさ」

「うん」

「しょっちゅうおなか出して寝るなって言われてたの思い出す」

「暑いとふとん蹴っ飛ばしちゃうもんね」

さん、寝相いい?」

「割と? なんか緊張すると寝付けなかったりはあるけど」

「おれも! だからすげー走ったりするっ」

「それは、なんか、余計目が覚めそうだね」

「すっきりするって!試してみて」

「うん、わかった」


とりとめもない話をしながら、歩いていく。
夏の音楽番組の話とか、サマースペシャル企画で集中放送されているアニメやドラマの話とか、バレーの世界選手権の話だとか、たぶん話さなくてもよくって、話しても意味ないけどただ楽しいだけの話。

また一つ日向君のことを知る。
日向君がよかったっていうCD、また借りてみようかなあ。

提灯の明かりがついた商店街はいつもと違って人が多く、屋台もたくさん並んでいた。





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