ハニーチ

スロウ・エール 46




日向くん、どうしたんだろうか。
どうしたんだ、いったい。


日向君の教科書を拾った体制のまま、いつまでも動けずにいた。
1秒、2秒と時計の針が動いている。かろうじて時間が過ぎていることを自覚できた。

けど、訳がわからない。
頭が全然働いていない。

だって、まだ肩に余韻が残ってる。
日向君の手のひらを覚えている。


なんで、なにが、どうなったの。


顔を上げて、さっきまで日向君が座っていた階段を見つめた。
状況がさっぱり理解しきれていない。


ええっと、

日向君がこの階段に座っていた。


日向君が持っていた教科書が落ちてしまったから、それを拾わなきゃってしゃがみこんで、声をかけた。ら、日向君の手が私の肩に触れた。


顔が、近づいた。


名前を……呼ばれた。



ようやく状況をまるっと咀嚼できて、一気に全身が熱くなった。


なんなの。

今のは、なに。

誰もいないのに教科書で顔を覆った。あ、これ、日向君の教科書なのに。
右、左と周囲を確認して誰もいなかったことに安息した。

だって、まさか、そんな。

なんで急に下の名前で呼んだりするの。
なんで、肩なんか簡単に触れるの。

どうでもいいってこと?男子と同じってこと?

わかんない、わからない。

鼓動が早い。日向君のせいだ。いや、廊下が暑いのもあるけど、全面的には、日向君のせいだ。


誰にだってこんなことするの?
誰だっていいの?


私、こんなことくらいで動揺するくらい……好きなのに。



耳を澄ましてみても日向君の足音は聞こえてこなかった。

かといってどんな顔で会えばいいかもわからない。

日向君、ずるい。ずるいよ。
私ばっかり、こんな、意識してる。


手にしていた教科書が曲がってしまいそうで、意識して力を抜いて立ち上がった。
教科書、渡してあげないと。
でも、合わせる顔がない。



っちー」

「!!」


ちょうど廊下からやってきたのは、同じクラスの2人だった。
一人の子が飛びついてくるから受けとめた。


「二人とも部活?」

「そうだよー」

「夏休み明け、大会あるからね。ちゃんも?」

「ああ、うん。家庭科部」

「あー文化祭。去年もやってたよね」

「う、うん」

「暇なら一緒に食堂行こうよ」

「二人とも昼ごはん?」

「んーん、美菜がプリン食べたいっていうから」

「行こうよ、っち、プリン」

「いっいいね、プリン。行こうっ」


空元気のように声を張り上げた。

へこむの変だし、ここにいたって仕方ない。

気を取り直して、クラスメイトに連れられるまま食堂に向かった。
メニューは絞られているけど、営業はしているらしかった。
事務的な情報を思い浮かべて、動揺しきっている内心を意識しないようにつとめた。
手にしている教科書の苗字は見えないようにちゃんと持ち直す。

今は日向君の名前なんか出されたら落ち着いていられそうにない。


「おばちゃん、プリン三つくださーい」


夏休み中の食堂はいつもの混雑とは打って変わってとても空いていた。
洗い物をしているおばちゃんが、冷蔵庫から商品を取り出してくれた。
話をしながら、心の中ではまだドキドキと鼓動が早かった。
プリンの甘さで冷静さを取り戻せたらよかった。



「そいや、さっきひなちゃんめっちゃ走ってたよ」

「!!」

「ちょっ、ちゃんだいじょーぶ!?」

「だ、大丈夫。まだフタ開けてなかったから」


手が滑って私の手から華麗にプリンは転がった。

だって、いきなり日向君の名前が出てくるとは思わない。

こちらの心中などわからないクラスメイトはプリンを一口食べて続けた。


「ひなちゃん、めっちゃダッシュしてね、捕まってた」

「つ、つかまってた?」

「あ、日向君? そうだね、廊下をあのスピードで走れば先生見逃さないよ」

っち、会った?」

「あ、いや。……うーん」


何故か肯定も否定もできず、言葉を濁してしまった。

肯定するとさっきの出来事が浮かぶし、否定すると嘘をつくことになる。

上手くごまかせるメンタリティが欲しかった。



「なに?ちゃん、日向くんとなんかあるの?」

っち、ひなちゃんのバレーによく付き合ったげてるから」

「ああ、確かに。体育館でちょいちょい見かけるよね」

「あ、はははは。ほら、日向君、ずっとバレー部一人だったから」

「そいやそんな話聞いたことあるや」

「ひなちゃん一人バレーだし」

「いや! その、今は1年が入ったし」

「そいや1年といえばさあ」


その後、話は違う方に移っていった。
二人と話をしながら、心の奥ではつい日向君のことを考えてしまった。
日向君にはいっぱい友達がいるって思い出してしまった。
こないだのお祭りの時だってそう、日向君のそばにはいつだって誰かがいる。私はたくさんいる中の一人。


「……」

っちー?」

「あ!なんだっけ」

「うちの学校に徘徊する幽霊がいるって話」

「家庭科室にいるの見たって聞いたよー」

「や、やめてよー。これから行くのに」

っち、怖いんだ」

「怖いよそりゃ!」

「てか大丈夫? なんか顔赤い」

「うっ、うん。だいじょーぶ、なんかほら、ここ、暑くて」

「だね、早く涼しいとこに行こう。美奈もプリンで満足でしょ?」

「満足っ」



二人とはここで分かれた。
楽しそうにさっきの幽霊話の続きが聞こえて、そのうち聞こえなくなった。

再び戻った廊下はちらほら生徒はいたけど、やはり人気は少ない。
いつまでも立ち尽くしているわけにもいかず、家庭科室へと向かった。

今日はさすがに後輩たちも来ていないみたい。

誰もいないけど、やっぱり暑さはつらくて、冷房を付けた。

ミシンの音と、空調の音だけだ。
ひたすら作業に没頭していると、余計なことを考えずに済んでいい。

黙々と作業を進めるうちに時間は過ぎていった。

そういえば、日向君の教科書はまだここにある。
日向君も困っているんだろうか。

つい作業を進める手が止まると、やっぱりさっきの出来事を思い出してしまった。

あんな間近で日向君のことを見たのは、初めてだった。



「!」



ふと人の気配を感じて振り返ってみた。

誰もいない。

そりゃいるはずがない。ここには自分しかいないんだから。



「……うん、そんなわけない、おばけなんて、そんな」



わざと声を出して椅子に座りなおした。
もうちょっと縫わないと終わらなくなっちゃう。よし、やろう。

そのままミシンで文化祭用の作品を黙々と作り続けた。
集中してしまえばおばけなんて怖くない。

ふと時計を確認するとそろそろ先生が見回りに来る頃合いだった。

夏休みは普段より早く閉まるから気をつけないと。

そう思った瞬間、今度こそ大きな音がして息をのむと、そこには日向君が立っていた。



「び、くりした」

「き、今日は! さんだけ?」

「そう。どうしたの?」



そう口では言いながら、教科書を手にした。
ミシンの電源を止めて、入り口に立っている日向君の元へと素早く差し出した。



「これっ。これだよね」

「あ、ありがとう……」

「よかった、渡せて。あ、傘は傘立てにひとまず入れたんだけど」

「それで、大丈夫」

「そっか。その、ありがとう、助かったよ」

「うん……」


日向君はどこかよそよそしい気がして、きっとさっきのことを気にしているんだと分かった。
もう忘れようと思った。
私は何にも気にしていない。

そう思ったはずなのに、外れていた視線がぶつかると途端に全て意識してしまいそうだった。



「あの、さん、さっきは、ごめ「いいよ!」



間髪入れずに答えた。



「全然、そんな……気にしないで」



先手を打とうとした。



「でも」

「本当に。大したことないよ」


肩を触られるくらい大したことなんてない。
顔が近づくってそりゃ、別に、よくあることだ。仲がいい友達ならそんなこともある。

本当はこの距離ですらドキドキでいっぱいだけど、取り繕うのは簡単だ。



「ほら、なっちゃんもよく私のこと触るし」

「……」

「よ、よくあることだよ。全然、ぜんっぜん大丈夫」

「……」

「なんならまた触ってもいいよ。あ、二の腕とかはダメだけど」



我ながら何を口走っているんだろう。全然取り繕えてない。
緊張しすぎて訳のわからないことを言っている。
自覚しながら日向君を見る。

まさか、日向君がそんな真剣な面持ちで私を見ているとは思わなかった。


「おれ、夏目じゃないよ」


冗談で言っているわけではないのは表情でわかる。
どこか怒って聞こえたのは気のせいだろうか。いや、違う。


「そ、だよね。ご、ごめん、なっちゃんと一緒にしちゃ……」

「じっじゃなくて、さ」


今度は怒っていると言うより戸惑いが見え、言葉を選んでいるのがよくわかった。
日向君が視線をそらして頭をかいた。



「おれ、男だよ?」



知っていることだけど、目を向けていない事実を告げられて息をのんだ。




さん、本当に触っていいの?」




日向君の手が伸びてきて、まさか本当に触れようとするとは思わなくて動けなかった。

もちろん、というべきか、日向君の手は空中をつかんで止まった。

日向君は唇を結んで、見てわかるくらいに呼吸した。
見たことがない日向君で、少し怖かった。



「ごめん」



どこか切なげに見える表情で呟かれた言葉だった。

この謝罪が何の行為に対してなのかすぐにわからなかった。



さん、わかってないかもしんないけど、さ」



日向君は神妙な面持ちで俯いた。




「おれは、すごく……」





言葉の続きを待つように息をのむと、日向君がはっと表情を変えて俯いた。
私もつられて上履きの足先を見た。
かすれたサインペンの文字を意味なく黙って読んだ。



「いやっ、ご、ごめん!おれ、今日おかしいやっ」

「ううん、こっちこそ、なんか、ごめん! 私が変なこと言いだしたから」

「その、元はおれが……だから、さん悪くない」

「でも、でもごめ、……っ!!」

「ええっ!?!」


扉の向こうに黒い影、驚きのあまり足がもつれてそのまま日向君の肩に激突してしまった。
さっきとは違う強さで日向君は抱き留めてくれた。
お化けの怖さよりこの温もりにどうにかなりそうだった。

諸悪の根源、もといおばけ、もとい見回りの先生があきれた様子でこちらを見ているのを日向君の肩越しに見た。


「じ……邪魔したか?」


なにを、言っているんだ。この先生は。



「じ、じっ邪魔とかじゃありません!!」

「え、うわあ、び、びっくりしたあ!先生なんでここに、家庭科じゃないじゃん!」

「もう下校時間になるからさっさと帰れ。ほかの先生にこんなところ見つけると面倒だぞ」


「「こっこんなところって!!」」


声が重なって日向君と顔を見合わせた。
絶対顔赤い、私も、日向君も。

先生が鍵をかけたいから早く出ろというので、すべての道具を片した。
日向君も先生と話しながら手伝ってくれた。

日向君がほんのちょっとでも近づくだけで、頭が沸騰しそうだ。

なんで、あんな、こけちゃったんだろう!

作りかけの布を握りしめて八つ当たりするように手提げ鞄に押し入れた。




next.