ハニーチ

スロウ・エール 47





頭の中ではずっとずっとさっきの出来事がぐるぐると回っていたけれど、そんなことより家庭科室を出ることが最優先だった。
電気を消して、廊下に出る。
鍵をかける先生がしゃがむ横で、となりを見やると日向君と目が合ってまた先生を見た。
日向君の肩にくっついた瞬間を、今もはっきり覚えていた。


「前も言った気がするが、ちゃんと最終下校時刻は守れよ。最終なんだから」

「は、はい」
「はい!」

「だからって、廊下を走らないよーに。特に日向」

「えっ、おれ!?」

「今日走ってただろ。来てる先生みんな知ってるぞ」

「き、気を付けます……!」


先生と日向くんがしゃべっているちょっと後ろを付いて歩く。
日向君が前にいるだけでドキドキする。

さっきぶつかったとき、お日様の匂いがした。あったかさを感じた。家庭科室は冷えていたせいか、なおさら日向君の熱を肌で感じた。男子のシャツってあんな感じなんだって、抱き留められるってあんな感じなんだって、一人何度も繰り返していた。
混乱もしていた。興奮しているような、はしゃいでいるような、それで気を紛らわそうとするような、落ち着かない感覚。男子になれている子なら、こんな風にならないんだろうか。誰かに尋ねてみたかった。

平気な顔してなくちゃ。日向君に引かれちゃう。

先生が他の教室を見回ると言って階段を上がり始めると、ひっそりと気合いを入れ直した。
私は動揺なんてしていない。

して、いない。

日向君と目が合った途端、すぐに気もそぞろになった。

心のどこかに、中途半端に終わった言葉が引っ掛かる。


“おれは、すごく……”


すごく、


なんだったんだろう。


聞きたかったけど、聞けるはずもなかった。
日向君の方が先に顔をそらした。


「か、帰る!?」

「そ、だね。帰らなきゃ」


日向君が先に階段を降り始めた。
もしかして、もしかすると、さっきぶつかっちゃったの、やっぱり、嫌だったのかな。

5段くらい先行く日向君が立ち止まって私を見上げた。


さん、てさ」


私もつられて立ち止まって日向君を見下ろすと、影がちょうど日向君と重なった。

何を、言われるのか。

身構えたけれど日向君は視線をずらして、やっぱりいいやと再び階段を降り始めた。
不安がよぎる。


「ま、待ってよ、日向君」


隣まで近づいて様子を伺った。


「さっきの、やっぱり怒った?」

「さっきの?」

「その、ぶつかっちゃったやつ」

「そっ、それは大丈夫!」

「じゃあ、なに?」

「いやっ、ううん」

「お、怒ってるならちゃんと言って欲しい」


階段が終わってしまったから、日向君の前に回り込んだ。
両手を合わせて、頭を下げた。


「ね、お願い」


しばらくその体勢でいたら、日向君が困ったように頭をかいた。


「お、怒ってるんじゃなくて……」

「うん!」

「えー……と」

「……」

「こ、香水、つけてる?」


唐突な単語に、思考が停止する。


「香水?」


謝らなくちゃと焦っていた気持ちがすとん、と落ち着く。
私の落ち着きのなさは日向君に移ったかのようだった。



「や、やっぱ、やっぱいい! おれ、今日、なんか変っ。どうでもいいこと聞いたっ。勉強しすぎたんだ、絶対」

「ごめん、わ、わたしも突っ込んじゃって」



もう一回ごめんを口に出しそうで、きっと日向君はいいよって言ってくれるはずだから飲み込んだ。

二人して早歩きで下駄箱に向かった。

そのおかげで、肘が軽くぶつかって、それですら飛び退くようにお互い距離を置いて、顔を見合わせてしまった。

なんでもないことなのに。今までだってあったじゃん、こんなこと。
特別な出来事のように感じられる。

もっと一緒にいたい。

下校時刻が来ているのはわかっているのに、一緒にいられる理由を探してる。

上履きから靴に履き替えることすらも、本当は寂しかった。




「あ、翔ちゃん!」


ちょうど昇降口を出たところで、別のクラスの男子が日向君に声をかけた。
こういうことはよくあることで、その度に私は邪魔しちゃ悪いと気をめぐらす。
今日も同じで、その男子が私のことをちらっと見たから、素早く日向君に言った。


「行っていいよ。私、バスだし」


わかった、じゃあね。

そうすぐ返ってくるのがいつもなら、日向君が一歩だけ進んで立ち止まったのが今日だ。
行ってほしくはなかった。
かといって、何がしたいというわけでもない。

いつまでもこうしているのは変だ。

日向君が口を開いた。



さん、明日は来る?」


来るよ、と答えたくてたまらなかったけれど、あいにく予定があった。


「その次は?」

「えっと、両方だめで……その次だったら来れるんだけど」

「あ、それだとおれがダメだ」

「そっか、合わないね」

「だね」


もう一度、翔ちゃん!と声がかかった。
行かなきゃって顔をした日向君がまたこちらを見た。から、手を振った。


「またね」


その“また”がいつになるかはわからないけれど、これが正解だと思った。
日向君は一瞬だけ黙ってから手を振ってくれた。
呼ばれた方へと駆けていく背中を見送った。

正解のはずなのに、どこか胸が切ない。
その切なさで、本当は一緒に帰れることを期待した自分に気づいた。

他の人たちが歩く流れに乗って、見慣れた通学路を歩いていく。
笑い声に交じって日向君の声が聞こえた気がする。

日向君はみんなと一緒にいる方が似合っている。
わかっているのに、隣にいてほしい。

そのくせ、今日、顔が近づいた時、どうしていいかわからなかった。

日向君は寝ぼけていたから、何にも気にしてないだろうけど、私は、本当は……キス、するんじゃないかって思った。
だって、男の子と、あんなに近づいたことはない。

日向君は夢ってぽつりと言っていたけど、それこそ夢のような出来事だった。
でも、現実だった。思い出せる、すぐそばにあの瞳があったから。いつも、ボールを追っている目。


私、付き合いたいのかな、日向君と。

抱きつきたいの?
キス、するの?

考えたこともなかった。


“おれ、男だよ?”


さん、本当に触っていいの?”


思い出しただけで緊張してきたから、また深く呼吸した。
心臓に悪い。
ドキドキする胸に手を当てた。手提げかばんを握りなおした。

日向君の手は、あのとき、途中でとまった。

もし、もう一度肩に触れられたら、どうなったんだろう。

私は、どうしたんだろう。


それに、日向君は、私のことどう思って……



ちょうどバスが着た。
仕事帰りの人たちも乗っていてそこそこ車内は混みあっていた。
立つことに集中するため、これ以上続きを想像することはしなかった。

日向君は男の子、わかっていることなのに、急に意識しだすとどうしていいかわからなかった。

いっそ好きって言ってしまった方がいいのかな。
そんな場面を想像した瞬間、ごめんと断られる図が浮かんで悲しくなった。

ああ、もう、恋ってめんどくさい。









このもやもやをどうしてくれようか。

悩みながら夜を過ごしていた。いっそ友人に電話をしようかと思ったけど、今日の出来事は説明のしようがなかった。

日向君にいきなり肩をつかまれたの。それで顔が近づいて、ぱっと離れていったの。
だからなに?って言われる、絶対。

説明の仕方を考えているうちに、特別な出来事だと考えているのが自分だけのように思われた。

結局、友人に連絡はせずに、文化祭に向けた残りの作業を進めることにした。
一心不乱に作業すると気持ちが落ち着く。

そのおかげで、携帯がバイブしていることに気づくのが遅れた。


「誰だろ……」


鞄の奥底に転がっている携帯を取り出すと、日向君ではなかった。
知らない番号の羅列だ。

出ようと思ったものの、なんとなく怖い。
しばらく放っておくと、そのうちコールは止まった。

用事があればもう一回かけてくるだろう。

作業の続きに手をかけようとしたとき、またバイブ音だ。
全く同じ番号だ。

誰だかわからないけれど、仕方なく通話ボタンを押してみる。


「もしもし……」


返事はない。


「あの、聞こえますか?」


耳を澄ますと、外なんだろうか。車の走る音がする。


「……」


相手の反応を待って黙ってみても、何も聞こえてこない。


「もしもし?」


よくよく聞くと、荒い息遣いが聞こえてくる。

急に怖くなって電話を切った。


なんだろう。
なんなんだろう。
すごく、不気味だ。

またかかってきやしないか気になったけど、今度はかかってこなかった。
用心して、危険人物、と電話帳に登録しておいた。着拒否してもいいけれど、もう少し様子を見よう。


もう、今日は盛りだくさんだ。

ベッドに身を投げた。
勉強ももうしたくない。寝ようかな。

またバイブ音が聞こえた。
さっきの危険人物からの電話かな。最悪、親を呼ぼう。

覚悟して携帯を手にすると、その名前を見ただけでベッドから飛び上がった。
やっぱり日向君はずるい。



next.