ハニーチ

スロウ・エール 49





まだまだ暑い今日という日に祖父がようやく退院した。
ちょくちょく病院にも顔を見に行ったけれど、こちらが拍子抜けするほど元気そうで、本当に祖父が体育館で倒れたのかと不思議に思うくらいだった。
親戚皆も同じように感じていたらしいけど、祖父のいないところで無理ができる年齢じゃないと話しているのを聞いた。

バレー部のコーチを続けるかどうかは、私が口をはさむことではないので、静観している。
また倒れたらどうするんだという意見もわかるし、バレーを続けたいであろう想いもわかる。
なんとなく祖父は高校バレーのコーチは退きそうな気配はするけれど、バレー自体はやめそうにない。

実はうらやましかった。
バレーを少しやっていた私としては、そこまでバレーに惹きつけられる祖父も、その祖父のことを誰より応援しているだろう従兄のことも、逆に全くバレーに興味を持たない両親のことも、皆がうらやましい。

中途半端なまま立ち尽くす自分が、かっこ悪くて、情けない。
頭を切り替えようと携帯を覗いてみても、面白いニュースが飛び込んでくることはなかった。

代わりに、ちょっと昔を思い出させる人からの連絡が、ひとつ。



「えーっと……」


久しぶりの体育館、前に来たのは友人を伴って雪が丘中学男子バレー部のチラシを置かせてもらった時以来だろう。
古い建物だけど、中に入れば空調は効いていて涼しい。

自販機の前には前に見かけた子たちとは違うけれど、おそらく体育館を使いにきたであろう小学生たちがはしゃぎながら飲み物を買っていた。
そういえば、ここで、ジョニーズ事務所の人を見かけたんだっけ。
名前は……、なまえ……、確か、みんなにキャーキャー言われて呼ばれてたんだけどなあ。うーん、味噌汁の人、だよなあ。
ああ、なんか気になる。顔は思い出せるのに。あの、飲み物を代わりに買ってくれた人も顔を思い出せる、のに。

腕を組んで小首をかしげた時だった。

真向いから、なんだか、見覚えのある人が歩いてくる。



「か……!」

「!!」

「す、すみません……」


そそくさと道をよけて、早歩きでその場を離れる。

絶対、ぜったい、いま怪しまれた。私、怪しい。もう、なんでつい声を出してしまうか。

後ろをそっと振り返る。

頭一つ分、それ以上もピンと伸びた人物、忘れもしないあの黒髪のセッター、あの人は、そう、北川第一中学の影山くんだ。

まさかこんなところで再会するとは、いや向こうからしたら名も知らぬ女子が奇声を上げたんだからたまったもんじゃないだろう。
相手はきょろきょろと誰かを探しているようだった。

そういえば、ジョニーズの人は北川第一出身の人だったっけ。もしかして、二人は待ち合わせしているとか?
中体連に出るような人だし、自主練習もするだろう。

ふと壁にかかっている時計に気づいて、こんなことをしている場合じゃないと気付いた。
私も人を探しているんだった。


!」


聞き覚えのある声の方を見る。

そこには、あのころと変わらぬ様子の、けれど時の経過を感じさせる風貌の女性が立っていた。
胸の奥が、どこか、きゅっと詰まるのは、昔のことを思い出すからだ。

怒られないかな、そんな思いが浮かんで消える。



「お、……お久しぶりです、先生」


小学校までのバレーチームの先生、今もコーチは続けているようだった。
会うのは、本当に久しぶりだった。
元気そうだなどと世間一般的な立ち話をしてから、自由に使えるテーブルスペースに移動した。
体育館を使い終わったであろう子供やその親もこの場所を利用していた。

にぎやかさがある中で先生は言い出した。


「ちょっとしたアルバイトをお願いしたくて」

「アルバイト……ですか」


久しぶりに呼び出されたかと思えば、アルバイトを紹介されれば怪しむのも当然だろう。
先生はにこやかに言った。

ある人物に勉強を教えてほしいと。
壊滅的な成績だから、これじゃあ高校受験も危ういと。

高校受験って……、受験生の私が教えてどうするんだ。


「あれ、っていま高校1年でしょ?」

「違いますよ、私も中3ですよ」

「ええー?そうだっけ?」


昔を思い出す。おおざっぱな先生だった、バレー以外に関しては。


「舞と間違えてませんか? あの、レフトだった……」


言いながら、過去のコートの中を思い出した。
自分がボールをトスして、そのボールの行く末を見つめていた時の事、華麗に先をいく、チームメイトのことも。


「あの舞が? 舞のがより年上だったの? あの落ち着きのない子が……」

「いやいやいや、あれで舞は頭は悪くないですよ」

「人に教えられると思う?」

「……まあ、自分でやるタイプですね、自分流に」

「そうなのかーー……、でも、もう呼んじゃったんだよなあ」

「誰をです?」

「教えてほしい子」


この人は、私が断るという可能性が想像つかなかったんだろうか。
いや、でも、チラシの件もあるし、お世話になっているから無下にもできないのは本当だった。
同じ中学生にしても受験が危ぶまれるレベルなら、私でも教えられるかもしれない。
密かに日向君が思い浮かんだ。



「あの、とりあえず、今日くらいは勉強みてみてもいいですよ?」

「本当に!? ありがとう、ちゃんとバイト代に図書カードあげるから」

「はあ……、でも、先生が、わざわざ勉強を気にかけるって、すごいですね」

「私が教えられんならそれでもいいんだけどねえ。最近の中学生って難しい問題解いてるわ」

「そう、ですかね」

なら大丈夫よ、だからお願いしたんだし」


何の根拠だろうと困惑しつつ、そもそも、言っては何だが、たかがバレーのコーチが、一人の選手に肩入れなどする様子に疑問を持った。
自分の子供ならまだしも、お金を出してまで、というところが更に謎だ。

率直に伝えると、先生はどこか得意げに言った。


「将来、全日本選手になるはずだからね。インタビューで感謝されたいじゃない」


何を言っているか理解できずにいると、先生は先と同じ調子で声を上げた。


「いた!! おい、飛雄!」


とびお、その響きだけが脳内に残る。

私たちのそばにやってきたのは、さっきよりも背が高く見える黒髪の人物そのものだった。



「よかったよかった、ずっと待ってたんだよ。ほら、座って。あ、勉強見てもらうんだから、の隣に座って」


いや、いやいやいや、隣じゃなくていいですよ、向かいでいいんじゃないですかね。
内心で突っ込みながら(とても声に出せない)、椅子に置いていた荷物を足元にずらして、影山くんが座れるスペースを作った。
ちらと目をやると、相手は淡々としていて、こちらばかりが動揺していることがよくわかった。
そりゃそうか、影山君からすれば、私のことなど認知できるわけがない。

それに、勝手に雪が丘中学の敵とみなしているのだって、強豪校の彼からすればおかしいだろう。
納得しつつ切なさも覚えると、先生が私を手で示した。


「この子、うちの女子バレーチームにいたセッターね。勉強できるし、同じセッターだから、たぶん気が合うでしょう」


先生の説明に全く共感を得ないまま、何も言えずにいると、今度は先生が影山君を示した。


「さっき言ってた将来有望な全日本選手の飛雄ね、すごく才能あるんだよ。でもね、勉強はできない」


影山君もこくりと頷いた。
そこ、認めるところなの!?と困惑しながらも、先生がじゃあ仲良くしましょうと握手、と小学校の頃を思い出す流れで言うので、なぜか手を握る羽目になった。
なんだろう、この展開。
私が、この人に勉強を教える?なんで?
学校の先生にでも言えばいいじゃん、先生も寄りにもよってなんで私を選ぶ?


「じゃあ、、後は頼んだ。これ、報酬ね」


ひょい、と紙の封筒を渡される。中には図書カードだ。

これからバレーだから、と先生がその場を離れる。

嘘でしょ、これで紹介終わり?いきなりあとは当人同士?
ち、ちょっと、先生!!





思ったより低い声だった。


「よろしく」

「……よ、ろしく。……飛雄、くん」


名前で呼びたくはないけれど、先生からは名前しか聞かされていないので、ひとまずそう呼んだ。
クーラーが当たるくらい涼しいこの場所なのに、汗が頬を伝った。





next.