コート上に立つ姿を見ていた影山君に、勉強を教える。
不思議すぎる流れに困惑していても仕方ないので、気を取り直して彼の学力を把握することにした。
なんでもいいので、模試や過去問の答案を見せてほしいと告げると、影山君は、英数国3教科の答案用紙を取り出した。
「ありが、……と」
パッと見て多すぎるバツ印、さらには点数が10点満点だったかなと戸惑う数字だった。
いや、答案の形式からしてこれは100点満点だよ、ね。
あ、やっぱりそうだ、100点満点だ。そりゃそうだよね、入試問題だもんね……、えっ、一桁!?えっ、3教科全部!?!
「あの、……これは、いつ解いたのかな」
「昨日」
「き、昨日……」
ということは、間違っても過去の彼の実力ではなく、最新の学力ということだ。
“高校受験も危うい”
先生がそう話している姿が脳裏をよぎる。
いや、いやいや、もしかすると自分の偏差値よりもずっと高い学校の過去問に手を出してしまったのかも。
だから見合った学校の入試を解けばもうちょっとできるってこともね、ありうる、うん。
うん、ダメだ、この問題、レベルそんなに高くない。
こんな引っ掛けもない素直な問題を解くのに、この点数か。そうか。あれ、この問題どこかで見たことがある。やっぱりそうだ、烏野高校の過去問。
「か、……飛雄くん、烏野受けるの?」
うっかり影山君と呼びかけたのを飲み込んだ。
こんなことならフルネームで自己紹介をするんだった(相手は気にしないだろうけど)
どことなく影山君の表情が固い気がして、すぐに言葉を付け足した。
「いや、その、い、家から遠いかなって」
影山君にこんな気をつかってどうするんだろう。
こんなことくらいでおどおどしてしまう自分に自己嫌悪しながら、答案を握りしめた。
一方の影山君はこちらの様子はさして気にならないようで、淡々と答えた。
「そんなに遠くもない」
「そ、そっか。……バレー部、なんだよね」
「ああ」
「どこの、学校だっけ」
「北川第一」
「バレー、強いところだね。確か県内の決勝に……」
影山君の眉がピクリと動いた。なんとなくだが、機嫌を損ねてしまったかもしれない。
「わ、私はね、雪が丘中学」
話題をそらそうと口走ってみたものの、心のどこかで日向君のことを覚えていたりしないか気にかかった。
でも、さっきと違って影山君の表情に変化はなかった。そりゃそうだ、1回戦で当たった学校なんていちいち覚えていないだろう。
「北一の人ってみんな青葉城西に行くって聞いたことがあったけど、烏野も受けたりするんだね」
なんてことはない会話のつもりだった。
ぎし、と軋む音がした。
彼が両腕を乗せたテーブルに体重をかけたからだろう。
「それ、教える必要あるか?」
今まで誰からも受けたことのない眼光だった。
身体の芯まで緊張するような鋭い眼差しに、息が止まりそうになる。
すぐそばでちびっ子達がはしゃいでなきゃ、怖くて声も出ないだろう。彼の答案をそっとテーブルに戻して、両手を握りしめた。
「ど……この高校を受けるかわかんないと、どこまでわかってもらう必要があるか、私も、わかんないよ」
そりゃさっき会っていきなり勉強を教わるという方も困るだろうが、引き受けた以上はこの短時間であってもきっちり勉強を教えるつもりだ。
断らなかった今は、責任をもってやりきるのみ。
「このまんまだと、あの、ほんとに中卒になるよ」
「!!」
影山君の様子を見るに、その危機は少しは認識しているらしい。
といっても脅しでもなんでもなく、烏野の入試問題でこの点数だったら他の学校だって危ういだろう。
「ね、よくないでしょ?」
さすがに本人も中卒は困ると理解できているようで、さっきまでの緊迫した空気から一変して、そわそわとぎこちなく肯定を示した。
「なら……、別に、個人情報を聞き出そうとしてるわけじゃないから、勉強に関してだけは、私にも飛雄君のこと、教えて。ね?」
心に余裕が出てきて、影山君に対して優しく声をかけられた自分にほっとした。
成績のことを持ち出されると途端に子どもっぽくさえ見えてしまう。
視線を泳がせた影山君がちらっとこっちを見て、すぐに視線を外した。
「わ、……わかった」
短いながらも返事をもらったので、こちらも1日教師として頑張ろう。
そう決意して、再び答案を手に取った。
*
「はい、時間です」
「ん」
赤ペンを握って、影山君のルーズリーフを受け取った。
「あ、ここ」
「?」
「さっき言ったところ。ここの式見て。かっこついてるでしょ」
「!……わかった」
「そ、それで正解。似た問題、この問題集の12ページと13ページに載ってるから、これをすんなりつけるようになってね」
「おう」
英語も同じようにやるべき問題について指示を出す。
といってもまずは単語と熟語の暗記に、英文法の基礎だ。今まで何を勉強してきたのかはあえてつっこまず、必要最低限の知識を頭に詰め込んでもらう。
影山君は特に読解力がないようなので、国語も同じく漢字の暗記に重点を置いてもらう。
確かにこのレベルなら私でも教えられるなと一人納得した(といっても教えるというレベルにさえ行きついてないけど)。
話を聞くに、烏野高校を受験するというのも確かなようで、まずはこのレベルの問題をすらすら解けるようになってもらうのが先決だ。
青葉城西高校はレベルが上だから烏野を解いているのも遅ればせながら納得だった。といっても、影山君ほどのバレーの選手なら推薦でもありそうなのにな。
もしかすると、推薦を受ける時に必要な小論文がひどすぎるのかもしれない。国語の文章題の解答があまりにも理解できなかった。
本人に尋ねるのは酷なので、これ以上は質問はしないでおいた。
そろそろ1時間は経つ。
「あ!」
影山君が声を発するたびについ驚いて肩が上がってしまう。
「な、なにかあった?」
影山君がまた怖い顔でこちらを見つめてくる。
やっぱり、こういう顔されると苦手だ。
「……り、が……」
「え?」
「あ!……ぁり、がと、な」
ぎこちなく紡がれた言葉が、彼からの感謝の気持ちだというのを理解するのに数分かかった。
どうやら少しは彼の理解の手助けになったらしい。
「ど、いたしまして」
怒られたわけじゃない、と胸をなでおろしたけれど、まだ隣で何とも言えない怖い表情をしている影山君に気づいてしまった。
この人が黙ってこちらを見ていると、怒られるんじゃないかとびくびくしてしまう。
いや、怒られる要素はない(はず)なんだけど、どうにも、この表情が本当に怒っての顔なのか、何か緊張していての顔なのか判断がつかない。
たった1時間の付き合いでわかったのは、答えは本人から聞く他ないってことだ。
影山君が言わんとしていることを待っている内に、先生が子供たちにバレーを教え終えて戻ってきた。
「先生はどう?」
「わかりやすかったです」
あまりの即答っぷりに私の方が驚いてしまった。
先生は腕を組んで頷いた。
「そうか。体育館、使っていいから」
「あざす!」
さっきとまた影山君の表情が変わる。体育館の使用許可をもらえたのがよかったのか、素早く問題集をカバンにしまい込んでいった。
挨拶を短くかわし、立ち去っていく彼の背中を見送った。
「練習、していくんですか、影山君」
言ってしまった後に、飛雄君ではなく名字で呼んでしまったことに気づいたが、先生は気にしていないようだった。
「そう、最近来るようになったんだよ。なんか知ってる?」
知っているも何も同じ学校ですらない私が知るはずもない。
「でも、あの、学校が工事だったりとか」
「そういうわけじゃなさそうなんだよねえ」
他に思いつくのは、バレー部の次世代を担う2年生に体育館を占拠されているとか。
北川第一は決勝戦で負けたとなれば、後輩たちが雪辱を誓って今から頑張るのもおかしくない。
「いやー、飛雄、他のやつと上手くいってないんじゃないかなー」
「ケンカ、ですか?」
「わっかんないけど」
「はあ」
先生も詳しいことを知っているわけじゃなさそうだ。
「じゃあ、私はこれで」
「ちょい待ち。勉強教えてみてどうだった?」
「どうもなにも……」
率直な感想を伝えて、また勉強を教えてもいいことだけは話した。
そもそも教えるという高度なレベルは求められていないから、こっちも負担が少ない。
お礼は丁寧に断った。金銭のやり取りが発生したらこっちも責任が出てしまう。無理なく教えられる範囲でなら引き受けると告げると、先生も嬉しそうだった。
むしろ影山君の方がどう思うだろう。
「あの、別に教わる必要がなければ私は全然……」
「わかってる。飛雄に言っとくから。連絡先、教えていいのね」
「あ、いいですけど、そのメールアドレスだけ……」
電話がいきなりかかってくるのは気が引ける。
影山君の声色はどうも心臓に悪い。先生は笑って了承してくれた。
「でもバイト料払わないのは気が引けるな」
「いやいいですよ。あ、だったら」
「ん?なに?」
「その……」
いつか、いつか雪が丘中学の後輩たちがもし望むんだったら、コーチとして短期間でいいからバレーを指導してほしい。
そう告げると、先生は目を丸くしてから私の肩をバシッと叩いた。
「な、なんですか」
「先輩になったな」
「な、なんですか、それ。そんなことないです」
先生が豪快に笑うのが気恥ずかしくて俯いた。
「そうだ、せっかくだから飛雄のバレー見ていきなよ」
「えっ」
「どうせならトス打たせてもらうといい」
「ええっ」
「将来の日本代表のトスなんてめったに打てないからなっ」
突っ込みどころが多すぎて何も言えないまま、懐かしい体育館に引っ張られていった。
next.