ハニーチ

スロウ・エール 51




久しぶりに足を踏み入れた体育館は、変わっていないようで変わってもいた。
やはり3年の時が経てば工事も入っている。
ペンキも一部塗り替えられていた。

中に一歩踏み入れると、影山君がバレーのネットを張っている最中だった。


「飛雄、がサーブの相手するってさ」

「先生! あの、私、体育館履き持ってきてないですっ」

「忘れたやつ用にそこにあるから」


指さされた先には、昔見た靴袋が隅っこに置かれていた。
仕方なしに鞄を置いてそれを持ち上げると、あまり履きたいとは思えない体育館履きが出てきた。

先生と影山君が何か会話している。

影山君が将来の全日本選手?

すごい人なんだろうとは思うけれど、いまいち実感がない。
というか、この人のことを知らない。

影山君は、日向君の第一回戦の相手で、倒すべき相手。
それだけだ。

付け加えるなら、あの決勝戦。

彼があげたトスが誰にも受け取られずにコートを横切っていったのを思い出す。



「準備、できた?」

「あ、はい」

「じゃあ、コートに入って。ちょうどジャンプサーブの練習に持ってこいだ」

「はい……」


先生に指示されるまま、コートに入る。

そこではたと気づいた。

私は、なんでサーブを受けることになっているのか。
トスを受けるんじゃなかったか。

サーブとトスじゃあ、えらく心構えが異なる。



「ち、ちょっと、」


たんま、その言葉が放たれる猶予はなかった。

私のすぐ横を鋭い風が横切った。



「!!」

! ちゃんとボール見てないと怪我するぞ」

「いや、だって……」

「ほら、次!」


なんで、こんな練習モードなのか。
私はもうバレーチームの一員でも何でもない。
影山君も影山君だ。なんで、こんな本気になるの。

そう思ったのに、彼の真剣さがネット越しに伝わってくるようだった。

緊迫した空気、床を打つボールの音、さっきと同じ眼差し、この人の瞳もどこか心の奥に届きそうだった。

そう思考してしまったのが、運の尽きだった。



!」



今度は先生の声じゃなかった。














「ごめんな、。でも、昔はサーブ得意だったろ」


昔って、もうずいぶん昔だ。

先生の話を聞きつつ、ボールを受けたおでこがやはり痛くて、これ以上何も考えたくなかった。

コート上でぼんやりしてはいけない。それくらいは覚えていたはずなのに、すっかり記憶から抜け落ちていた。
将来の日本代表選手のとびきりのサーブは、痛みを伴って教訓を与えてくれた。

ボールを受けた私のため、先生と一緒に来てくれた影山君にふと気づいた。


「あの、かっ……、とびお、くん、気にしなくていいよ。練習続けてきて」

「ほんとうに、バレーやってたのか?」


それは真剣な顔つきで、半ば怒っているようだった。


「こら! そんな言い方は、」

「構えてなかった、何も。サーブも見てなかった。ぶつかって当然だ」


それは圧のある言い方で、なによりも正論だった。

先生が用意してくれた氷を額に当てるつもりが力が入らない。
怖かったのもあるし、図星だったのもある。何も、言えなかった。

先生が影山君を注意したが、影山君は自分の言ったことを訂正することもなく看護室から出て行った。

それでよかった。納得していた。

コートに入ったのに、まともに彼と向き合わなかった私が悪い。

真剣に、バレーと対峙しなかった。

先生がトスとサーブの件もあって何度も謝ってくれたが、私の中では影山君の指摘がまっとうに思えた。
今、バレー部じゃないことが問題なんじゃない。
中途半端にバレーに関わった私が悪い。

今日は帰った方がいいと勧めてくれた先生をやんわり断って、再び体育館に足を踏み入れた。

もう影山君だけに吸い寄せられる。

彼も私に気づいてボールを持って少し動きを止めたが、すぐにモーションに入ってジャンプサーブに入った。

アウトだった。

勢いはさっきと同じくらいだったけれど、ボールが大きくぶれた。

影山君は次のジャンプサーブの練習に入るところだった。

私はコートに入った。



「おい」



影山君の低い声がやはり恐怖心をあおった。



「や、やらせて、もらえないかな。この、1回だけでいいから」



なんで、コートに入ってしまったんだろう。
影山君は練習をしたいのに、こんな邪魔して。

おでこだってまだ痛いんだから素直に帰ればいいのに。


私の身体の奥底で何かが波打っていた。

ワガママを押し通すほどの何かを感じ取っていた。


“やっぱりバレーって楽しいな!”


大好きなあの笑顔が浮かんで消えた。



「またぶつかっても知らねーぞ」

「いいよ!」

「……」

「大丈夫……」

「そうかよ」



影山君はそれ以上は言葉にせず、代わりにジャンプサーブに入った。
コンマ送りの速さだ。

ボール、こっち、腕を、前に。

ぐっ と、痛みが走る。
鈍い圧力を腕で、肩で、全身で受けて、ボールはかろうじて打ち上がった。
他にメンバーのいないコートの中に高く飛んだボールが落ちて、はねて、その内に転がった。

とれ、た。

まだ、鼓動が早い。
汗が首筋を伝った。



「あ、ありがとう」



ボールを拾って影山君に返した。

とれたのは運がよかっただけだ。
さっきサーブをコート外に放った影山君が力を押さえてサーブを打った。
本気でやったつもりだろうが、コートに入れようとする意思がボールの速度を若干遅くした。

といっても、レシーブができた今だからこそ、こうして分析できるだけだ。

靴を脱ごう。
しゃがみこみ、元は白かったんだろう体育館履きを端っこで脱いでいる最中だった。

何かが体育館の照明と私の間を遮った。

顔を上げると影山君が傍に立っていることに気づいた。


こ、怖すぎる。

手に持ってるボールで何かされるのかと怯えた時、影山君は言った。



「帰るのか」

「……あ、……うん、ごめん、邪魔して」

「……」

「す、すぐ、出てくから」

「……、……ああ」



何か、他に言いたいことがあったんだろうか。

それだけ言って影山君はサーブの練習に戻った。

切り替えが早い。

すごい集中力。

これだけのジャンプサーブ、きちんとコートに入ったらどれだけ戦力になるだろう。
才能の原石、磨かれた先に日本代表があるというなら、本当かもしれない。


また、彼のサーブが空気を切った。

身体からまだ抑揚が抜けきっていない。

よく、とれたな、あんなサーブ。
我ながら奇跡だと、一回のサーブしか受けていない腕を撫でた。

影山君は、やっぱり手加減してくれたのかもしれない。
立ち上がろうとしたとき、ボールが転がってきた。

まだ転がっているボールがいくつもあって、折角なので抱えられるだけ手にして、影山君の傍にあるかごに戻した。

影山君が無言でこちらを見た。


「か、帰る! ごめん、邪魔して」


小走りで入り口に向かうと、背後で声がした。
ありがと、な、と、不器用な、ぎこちない感謝の気持ちだった。




next.