ハニーチ

スロウ・エール 5


“いつも喜んでたからさ”


他の人からすれば、きっと大したことない一言だろう。
ただ、私には大事なことだった。

日向君に喜んでもらえている。

それだけでそばにいられる。
私は、やっぱりそばにいたい。

手提げかばんを揺らして体育館まで走ると、ちょうど女子バレー部が練習を終えて帰っていくのが見えた。
そっと入り口から覗き込むと、彼の見慣れた後ろ姿があった。


おつかれさま、

差し入れ持ってきたよ


頭の中ではとっくに会話できているのに、声が出てこなかった。
日向君がボールを高く飛ばす。もっと高く飛ぶ。

トス、出そうか?

何度かその言葉を飲み込んできた。
今は、手提げの中のものを取り出して、いつもの言葉も喉元にとどめている。


「あれ、さんっ」


キャッチし損ねたボールが私のいる方まで転がってきた。
不意打ちすぎて隠れられなかった。って隠れちゃだめだ。息を吸い込んで一歩踏み出した。


「まだやってるの?」

「もうちょっとだけね、先生が見回りに来たら出ないと」

「そっか」

さん、具合悪いのに大丈夫?」

「あ、ほんともう平気だから」

「そっか、よかった……」


日向君がまたパスをしていた位置に戻っていく。かと思えばそのままカゴにボールを置いた。
振り向いてみたけど、まだ先生は来ていない。
日向君がカゴを体育倉庫に押し運ぶ音が聞こえた。
扉が閉まりかけていたから、お菓子の入った袋は手提げに戻し、ローファーを脱いで、体育倉庫の扉を開けた。


「ありがとう」

「もう練習しないの?」

「送ってく」


何を?

問いかけることはせず、なんとなく想像していることが本当かどうか、自分に都合よく解釈していないかを頭の中で考えた。

日向君はたくさんのボールが入ったカゴを押し入れて、続けた。


「着替えてくるから待っててよ」

「……」

「あ、もしかして急ぐ?」

「え、ううん、そんなことない」

「じゃあすぐだから、下駄箱で待ってて」


倉庫と体育館の鍵を閉めて、二人で校舎に入った。
やっぱり、私を送ってくれるという意味だった。
今までだって一緒に帰ったことはあるけど、そんな風に言われたことはなかった。

荷物のある教室へ日向君が駆けだすと、あっという間にその姿は夕闇の中に消えた。

下駄箱の前で日向君を待とうと移動する。
もう自分から近づかないって決めたのに、こんな風に接してくれるだけで嬉しくなった。かんちがいしそうになる。
熱くなる頬を片手で押さえて、落ち着けと自分に言い聞かせた。
窓ガラスに映る自分を見て、髪を撫でつけた。まだ元気なさそうなのかな、日向君の前では元気な顔でいたい。
優しさが理由で声をかけられたくない。



「お待たせっ」

「は、早いね、ゆっくりでよかったのに」

「待たせたくなかったからさ」


とん、ととん、日向君が靴を落とす音が昇降口に響いた。


「じゃあ行こう」


「うん」


二人で帰ったことなんか何回だってあるのに、今日はなぜか緊張した。
いつもの調子に戻りたくて手提げかばんをまさぐった。
宿題用に入れた世界史の資料集がやけに重くて、カバンを持ち直した。


「日向君、これ」

「わっうまそう」

「差し入れ」

「これ何?」

「パウンドケーキ、口に合うといいけど」

「合うよ、絶対っ。さんがくれるやつ、いつもうまいもんっ。あ、食っていい?」

「もちろん」

「ありがとっ、いただきますっ」


おいしいって時折言いながら口の周りにパウンドケーキの欠片をくっつけて食べる日向君。
彼を見ていると、悩んでいたことなんかどっかに飛んで行ってしまった。
さっきまであんなに深刻だったのにな。
ポケットからティッシュを一枚引き出して、日向君に少し近づいた。


「はい」

「ん?」

「ここ、ついてるよ」

「ここ?」

「反対」

「……へへ」


好きだって気持ちがこみ上げた。
夕焼けはとっくに夜の色に変っていたけど、この色でも十分に私の頬の色はごまかせた。
日向君がティッシュとケーキが入っていたビニール袋をくしゃくしゃと丸めて無造作にポケットへ突っ込んだ。


「今度、さんにお礼しないと」

「お礼?」

「いつもこうやって差し入れもらってるし、部員集まるように手伝ってもらってるしさ」


日向君は、道路の白線の上を真っ直ぐに歩きながら続けた。


「ほんと、……おれ」


私たちの横を車が通り過ぎた。ヘッドライトで影が伸びて、通り過ぎてしまうとまた暗くなった。
静かになった道を並んで歩く。
バス停が見えてきたけど、日向君がそれ以上何も言わないから自然と足が止まった。
日向君も歩みをとめた。

なんだろう、何か変なこと言ったかな。


「あ、あのさあ」


日向君がしばらくして切り出したところで、背後から自転車に乗ったおばさんが来た。端に避けないとと思うより早く日向君の手に引っ張られた。
腕、掴まれてる。

冬服より薄い生地のせいか、日向君の指を実感した。
すぐ離してもらったのに距離が近くて、俯くと、日向君も一歩後ずさりした。


「ご、ごめん」
「ありがとう」


ちょうどバスが来た。


「あ、じゃあ……また明日」


この空気にいたたまれなくなって、片手を上げてバスの方へ私は歩き出した。


さん」


呼び止められると、鼓動が早くなる。



「お礼、するから」


いいのに。言う間もなかった。大きく腕を振って日向君が離れた。


「絶対だから!」




next.