『絶対だから!』
日向君はその言葉を残してそのまま行ってしまった。
お礼なんていいのに。
バスの車内で空いていた席に着き、窓ガラス越しに流れる景色を見つめながら日向君の言葉を思い返した。
少しだけ軽くなった手提げかばんを持ち直す。
日向君に渡せてよかった。喜んでもらえた。
お礼を期待している訳じゃなかったけど、日向君にそう言ってもらえると言うことは少なくとも差し入れを喜んでもらえているということだ。
その事実が証明されたみたいで嬉しかった。
明日、泉君となっちゃんにお礼言わないと。
隠しきれない嬉しさから今晩は家の手伝いを進んでしたら、親に『いいことあったんでしょう?』と指摘された。そうかもしれない。恋は急上昇したり、急落下だってする。
早くバレー部員増えないかな。
そしたらもっとたくさん腕がふるえる。
*
「んなわけねーじゃん!」
あくる日、学校に行くと、日向君の声が廊下に響いてきた。
何を話しているかわからないけれど、楽しそうには聞こえない。
扉を開けるとこちらに視線が来た。
「お、来た来た」
日向君の周りに男子数人がいた。
もしかしてまた昨日みたいな会話かな。
あまり心地のいい視線ではないから、このまま引き返してしまいたかった。
とはいえ、あからさまに避ける方が余計にからかわれそうだと思ったからそのまま足を踏み入れた。
日向君がこちらにつかつかと歩いてきた。
「おはよう、さん」
「おはよう」
「ちょっと来て」
「えっ」
まだSHRまでに時間があるし、行くこと自体は問題なかったけど、手を引っ張られたのに驚いた。
さっきの男子もひゅーって後ろで言っていて、クラスメイトの視線が気になった。
日向君の早歩きに合わせてそこの角で立ち止まる。
「どうしたの?」
「驚かせてごめん」
「いいけど……」
日向君がポケットから携帯電話を取り出した。
「まだアドレス教えてもらってなかったから、教えてもらっていい?」
「え、うん」
どうして私のアドレスを知りたいの?
聞くことは出来なくて、言われるがまま赤外線通信をした。
日向翔陽の名前が電話帳に保存された。カテゴリ、クラスメイト。
パチンと携帯を折りたたんで、日向君は元の位置にしまった。
「さん、ありがとう」
「ううん」
ちょうど予鈴が鳴った。
「あ、今度の日曜、時間ある?」
「日曜? 大丈夫だけど」
「水族館の招待券あるからさ、一緒に行こうっ」
「ほら、もうすぐホームルーム始まるぞ」
「あ、はい」
「はい!」
階段から先生たちが上がってきて声をかけられた。
二人で教室に向いつつ、少しだけ声をひそめて日向君が話しかけてきた。
「どう?」
「なにが」
「さっきの、日曜の話」
水族館、日向君と、日曜。
断る理由なんてなかった。
「い、行く」
「よしっ、じゃあ詳しいことはメールするね」
「うん」
日向君と水族館か、なんで誘ってくれたんだろ。
うきうきしながら、それとは別の疑問が浮かんだ。
「そういえば……日向君、今朝何かあったの?」
こんなお誘いはクラスメイトの前でされても困るし、日向君もからかわれるだろうし、なんとなく合点がいくけど、携帯の連絡交換くらいなら教室でしてもよかったんじゃないか。
日向君は首を横に振った。
「なんでもないよ」
「そっか」
「あ、でも」
「なに?」
「あんまりおれに話しかけない方がいいよ」
本鈴がちょうど鳴り響いた。
教室に日向君が先に入って、私も続いて中に入る。
日向君に理由は聞けなかった。
どことなくクラスメイトの視線が気になって、平静を装ってかばんをおいて朝の挨拶をする。
ホームルームの連絡事項をメモに取って、日向君を少しだけ視界に入れた。
連絡先を聞いてくれた。水族館に誘ってくれた。……話しかけない方がいいと忠告をくれた。
日向君がよくわからない。
話しかけない方がいいって言ってたのに、教科書を忘れてきたら、見せてって言ってきてくれる。普通に会話だってする。
昨日だって、また差し入れしていい?って聞いたら、『いい』と言っていた。
理由を聞こうにもタイミングがなくて、あっという間に放課後になった。掃除当番も一緒だったけど、私がゴミ捨て当番だったから戻るころにはまたバレーの練習に行っているはずで、一人で肩を落とした。
考えても答えなんて出るはずもなく、考えないようにしようと思ってもボールの気配があると日向君かなと思考は彼に向かっていた。
友人に水族館に誘われたことだけを話してみた。
すると思っても見ない反応が返ってきた。
「ああ、それ、私も誘われた」
「えっ」
「あ、違う、日向にじゃないから。泉だから」
「え、泉君?」
「泉は日向に誘われたみたいで、なんか女子誘いたいからたまたま私になっただけ」
「そ、そうなんだ……」
別に、デートとかじゃないんだ。
そんなつもりはなかったと思ってみても、心のどこかで期待していた自分がいたようでどことなく恥ずかしかった。
「なっちゃんと泉くんも行くのか……、なんだそっか」
「、ずれてる」
「!やばっ」
今日はミシンを使って小物づくりをしている。
まだ先だけど、文化祭に向けての準備だった。
友人に指摘されて手元を見ると、真っ直ぐに縫うはずだったラインが大幅に曲がっていた。
一旦ミシンを留めて、糸を切らないと。
「私たち断ろうか?」
「何を?」
「水族館」
「やめてよ、そういうの。普通にみんなで行けば楽しいじゃん」
「そうかな」
「そうだよ」
「二人の邪魔したら嫌だし」
「そんなことないってば」
きっと、日向君もそんなつもりない。
単純に昨日言っていたお礼なんだ、私が差し入れしているから、優しいからそのお礼なだけ。
「本当にお礼かな」
「なんで?」
「日向って確かに小さいし小学生みたいだけど」
「ちょっとなっちゃん」
「しっかりしてるところあるし」
しばし友人から視線が送られる。
「な、なに?」
「……」
「顔になんかついてる?」
「……ま、いいけど」
「えっ、なに?なんかあるの」
「ないって。ほら、まだ全然できてないじゃん」
指摘されて、さっきの失敗したままの布きれから糸を外す作業に取り掛かった。
目の前の作業に没頭している内に、疑問は頭のどこかにしまいこまれて、気づけば帰る時間になっていた。
日向君、まだ練習中かな。
冬の時より明るくなった夜空を見ながら、ボールの音を探した。
差し入れしない日も時折声をかけに行ったこともある。
今日はどうしようかと一瞬考えたけど、話しかけない方がいいと言われたことを思いだした。
「、帰る?寄ってく?」
ミシンをしまう背後から友人に声をかけられた。
引き戸をしめて、立ち上がった。
「今日は寄らない、一緒に帰る」
友達と並んで帰りながら、他の生徒たちの波に紛れた。
その中に日向君はいなかった。
夜、携帯を見てみたけど日向君から特に連絡はなかった。
意味もなくアドレス帳で、は行を見つめた。
日向翔陽、彼の名前を視線でなぞる。
話しかけない方がいいって学校でってことかな。
メールならいいかな。
試しにメールを起動させてみたけど、送信ボタンは押せなかった。
*
いつまでたっても連絡がないなと思っていた金曜日の昼休み、5限の授業の準備があったので、早めに理科室に入ると数人の男子の姿があった。
嫌だなと思ってもしばらくすればクラスメイトが来る。
かまわずに先生から指示を受けたプリントを持って中に入った。
視線が集まる。
にやにやとした表情に委縮したけど、構わず入った。
「おい、来たぜ」
「一人かよ」
私のことを言っているのはわかったから、絶対に振り向かないようにした。
彼らは黒板の前にいた。
かまわずにそれぞれのテーブルにプリントを置いていく。
一人が声を張り上げた。
「今日は日向君と一緒じゃないのー」
ついその言葉に反応して振り返る。
黒板の文字が目に入った。
、日向翔陽の名前。相合傘に、ハートマーク。でか×ちびの文字、ご丁寧にピンクのチョークで書かれていた。
思わず駆け寄って黒板消しで書いてあったものをすべて消した。
「なんで消すんだよ」
「せっかく描いたのに」
からかいの声も嫌だったし、そんな男子のそばに寄るのも嫌だった。後になってからその感情が出てきたけど、この時は必死だった。制服にチョークの粉がつくのもかまわなかった。
ただ、日向君に迷惑をかけたくなかった。
「あーあ、消しちゃった」
「、なんで消すんだよ」
「また書けばいいだろ」
「やめて」
震えた声で訴えた。
一人が黒板消しを取り上げようとした。
「貸せよ」
「やだ」
「いーじゃん」
「やめて」
「何してんだよ、お前らっ」
聞きなれた声が入口から聞こえた。
日向君だ。
黒板に中途半端に新しく書き足された私の名前と傘の形で察しがついたらしく、こちらに駆け寄ってきた。
からかってきた男子達もさすがにばつが悪そうで、互いに顔を見合わせた。
「じ、冗談だって」
「こーいうの、……やめろって言っただろ」
日向君のこんな声、はじめて聞いた。
男子も日向君が本気で怒っているらしいことを察したらしい。
「悪かったよ」
「ちょっとしたお遊びじゃねーか……」
彼らはばつが悪くなったらしく、理科室を出て行った。
教科書など持っていなかったから、それを取りに行ったのかもしれない。
私はどうしていいかわからず、日向君がもう一つの黒板消しで残りの落書きを消すのを眺めていた。
おもむろに日向君が口を開いた。
「ごめん、さん」
「話しかけないでって言ってたの、こういうことなの?」
「…ちゃんとあいつらにはおれから言っとくから」
「ごめん、日向君」
「なんで、さんが謝るの?」
差し入れたりして、話しかけたりしてごめん。声にならない。
こうなった原因を自分で見つけていくと、一気に感情的になった。
泣いちゃダメだと思って俯いたままお互いに動けずにいると、友人が駆け寄ってきたのがわかった。
「日向、泣かせたの!?」
日向君が返事をするより早く私が答えた。
「なっちゃん、違う。違うから」
「じゃあどしたん?」
「泣いてないから、席着こう。もうすぐチャイム鳴るから」
友人の腕を引いて席に着いた。
我ながら情けなかった。こんなことで泣いてしまうなんて、日向君もどうしていいかわからないだろう。
クラスメイトがぞくぞくと集まる中、先生が来るまでうつぶせになっていた。
授業が始まって、教科書を開き、ノートを取る。
目や鼻の赤みが抜けているといいと思った。
ただ、日向君を応援したいだけなのに、どうしてこうなるんだろう。
これから先、話しかけられないのかな。
考えるとまた泣きそうになるから、考えないように理科の実験についていつも以上に丁寧に文字をつづった。
授業が終わると、からかってきた男子たち含めてみんなぞろぞろと理科室を後にした。
私は係なので、先生の手伝いを少しだけしなければならなかった。
先生に言われたことを淡々とこなした。
「じゃあ、今日はもういいですよ。さん、ありがとう」
「いえ、失礼します」
次の授業の科目を思い出そうとして理科室を出ると、入り口の壁に日向君が寄りかかっていたから驚いた。
日向君も私に気づいたらしく、顔を上げた。
「係、終わった?」
いつもと同じ調子なのに、私の方は言葉が出なくてかろうじて頷くことができた。
そのまま横を通り過ぎようとした。
「待って」
日向君に言われても、立ち止まりはしなかった。
日向君が駆け足で隣に来た。それでも前を向いたまま教室を目指した。
「さん」
「話しかけない方がいいよ、からかわれるから」
嫌な言い方になっていると、言った後に気づいたけどもう言葉を戻せなかった。
いたたまれなくて駆け出した。
追いかけてくる足音は今度は聞こえなかった。
6限も掃除当番も放課後も日向君とは話さなかった。
金曜の夜も土曜日も連絡はなくて、予定が決まっていたはずの日曜日はスケジュールが埋まらなかった。
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