月曜日、隣の席に日向君はまだ来ていなかった。
「おはよう、。それどうしたの?」
「おはよう、なっちゃん。これ?」
「どんだけ編み物にはまったの。目にクマだってできてるし」
「え、クマ?」
「鏡ないの?」
「ある」
大量に編みぐるみが入った紙袋を机の反対側にかけなおして、鞄の中に手を入れた。
日向君からの連絡が来ないのが気になってしまい、ずっと一心不乱に編みぐるみを作ってしまった。
置き場所もないので、どうせ文化祭用に準備するからどこかに置かせてもらおうと思って持ってきたが、やっぱりこれだけ作りこむと目立つ。後で、ロッカーにでも入れておこうかと考えながらハンドミラーを覗き込んだ。
「うわ……クマだね」
「寝てないの?」
「寝たよ、一応」
「一応ってなに」
「結構遅くまでやってて」
元気のない自分の顔が嫌で鏡を元の場所に戻した。
「まさか連絡待ってたの?」
「何の?」
「水族館、行けなかったもんね」
友人の視線で言わずもがな日向君のことだと分かったから、続けた。
「待ってた訳じゃ」
「日向まだ来てないんだ」
「そうみたい」
「日向って自転車で来てるんでしょ」
「なっちゃん、家近いんだよね」
「うん、あの距離を自転車って考えられない。まさか」
「なに?」
「来る途中で、なんかあったりして」
「なんかってなに」
「事故とか」
「やめてよ」
「あ、チャイム」
事故なんて縁起でもない。
そう思いながら椅子に座りなおしてみても、空席のままの隣が気にかかった。
「じゃあ、号令ー」
先生がやってきてホームルームが始まる。
なのに、日向君はまだ来てない。
まさか本当に事故ってこともないよね。悪い方向に思考が向きかかった時、誰かが日向君がいないことを先生に告げた。
「ああ、日向君は今日は風邪でお休みです」
日向が風邪?と少しばかり教室内はざわついたけど、先生が制してホームルームを進めた。
日向君が風邪だなんて。
あまり風邪をひくイメージがなかったから、携帯を思わず手に取った。
“風邪、大丈夫?”
打ってはみたものの、先週自分で話しかけない方がいいなんて言ってしまった手前、送信ボタンまで押せなかった。
日向君がいなくたって授業は始まる。
いつもと同じように教科書を取り出した。
いつもと同じはずなのに、日向君がいないだけで教室がどこか寂しかった。
*
「、日向の家ってわかる?」
放課後、編みぐるみの入った紙袋を携えて廊下を歩いていると、先生に声をかけられた。
友人の家が近いから、日向君の家のそばならわかる。
「わかりますけど」
「あいつ今日休みでしょ、プリント持ってって欲しくて。他に男子に頼んでもいいんだけど、がちょうどそこにいたから」
「わ、私持っていきます」
「じゃあお願いね」
これはチャンスだと思った。
先生がいなくなったのを見計らって廊下を走った。
紙袋に入った人形が揺れるのも構わなかった。
家庭科室の準備部屋があったから、紙袋を置いた。友人にも話してあるから、すぐに日向君の家に向う。
その前に紙袋の中から、一つだけ人形を取り出して鞄に着けた。
編みぐるみに勇気をもらった気がして、勢いよく駆け出した。
日向君は自転車で来ているらしいが、私はバスを使う。
いつもと違う路線を使って、バスに揺られていくと、何度か遊びに行ったことがある景色が見えてきた。
停車ボタンを押して、止まったバス停で降りる。
何となく、わかる。
記憶を頼りに歩くので、少しだけ迷ったけど、何とか着いた。
家の表札を一つずつ見ていく。日向、日向……、あ。
「ここ、だ」
ちょうど「日向」の文字を見つけた。
まだ日があるけれど、人気はない。
呼び鈴を鳴らそうと思うけど、緊張したから一旦深呼吸した。日向君のお母さんってどんな人だろう。怖いかな。
プリントを腕に抱いて、もう一度深呼吸した。
そういえば今日はクマができているんだった。
こんなことなら寝ておけばよかったと思いながら、ゆっくりとチャイムを押した。
「はーい」
誰かの声が聞こえた。
日向君かはわからなかった。扉が開く。
そこには小さな女の子がいた。
不思議そうにこちらを見るから、頭を下げた。
「こんにちは」
「……」
「あの、お母さんいますか?」
こんな小さい子に話しかけても困るかと思ったところだった。
「こら、夏、寝てないと」
「あ」
「あれ?」
日向君だ。
制服じゃない日向君が少女の後ろから出てきた。
「さん、なんで?」
「あ、あの先生に頼まれて」
「この人、?」
「えっ」
「こっこら、夏っ。せっかく熱が下がったんだから」
日向君が妹さんを抱えて、家の扉を押した。
「ここじゃなんだから、さんも入って」
「いいの?」
「じゃないと夏が外に出ちゃうし、散らかってるけどどうぞ」
「うん……」
まさか中に入れるとは思わなかったし、妹さんがいるとも知らなかったし、予想もつかない展開に驚きながら後に続いてお邪魔した。
「失礼します……」
「いらっしゃい。そこ、座ってていいから」
「あ、私すぐ行くから」
「来たの?」
「!いいから布団でビデオ見てなさいっ」
「……」
夏と呼ばれた女の子を日向君は連れて行った。
日向君は元気そうでよかった。妹さんが風邪なのかな。まさか、日向君宅に入ることになるとは思わなかった。
おずおずと日向君が指さしたほうに腰を下ろした。
「ごめん、待たせた。あ、座布団使って」
「ありがと。あ、これっ」
「なにこれ」
「先生が日向君に渡すようにって」
「ああ、これか……、ありがとう。わざわざ届けに来てくれたんだ」
「あ、うん」
「お菓子食べる?」
「え、お菓子?」
「ちょっと待ってて」
もう用事済んだんだけどな。
帰るタイミングを失った気がしてもごもごと口を動かしてみたものの、日向君がお煎餅を持ってきてくれた。ついでに、紙コップと麦茶の瓶も。
「はい、さん」
「あ、うん」
「このゴマ煎餅、うまいよ」
「じゃあいただきます」
「どーぞ」
既に日向君はいい音を立てて、煎餅を頬張っていた。
私も小さく割ったのを口に運ぶ。確かにゴマが香ばしい。
「妹さん、寝たの?」
「ううん、アニメ見てる。治ってきたからすぐ外に遊びに行こうとしてさ」
「そっか。あ、日向君は風邪へーき?」
案外普通に話せるものだなと、注いでくれた麦茶を飲みながら思った。
「あ、おれ風邪じゃないんだ」
「でも学校休み…」
「いや夏がさ、あ、妹の名前が夏なんだけど、週末ずっと風邪引いてて。今日用事で誰も家にいなくなるから、おれが残ることにしたんだ」
「そんなに妹さん風邪大変だったんだ」
「ちょっとね、まだ小さいから。明日は親いるから学校行くよ」
「そっか」
「まだあるよ、食べて」
そう言って日向君の腕が伸びて、お煎餅を差し出された。
「あ、ありがとう」
「まさかさんが来てくれるとは思わなかった」
言われて、顔を上げると、同じように座布団に座った日向君と目が合った。
「もう、話せないかと思ってた」
「そ、そんなことない」
「……」
「……」
互いに沈黙になった。
日向君が何で黙ったかはわからない。私と同じで先週のことを思いだしているのかもしれない。
「日曜日、すっぽかしてごめん」
「いいよ、そんな。妹さんが風邪でそれどころじゃなかっただろうし」
「何も連絡できなかったから」
「それは、私も同じだよ」
「おれから誘ったのに」
たった一言でも、私からメールすればよかった。
そうしたら、こんな顔、日向君にさせずに済んだのかな。
「……私ってダメだね」
泣きはしなかったけれど、後悔は膨らんだ。
「日向君を応援したかっただけなのに、迷惑ばっかりかけてる」
手元のお煎餅の袋が悲鳴を上げた。
日向君が、不意に自分の顔をぱんっと両手ではたいた。
「!?」
「さんっ」
「は、はい」
「おれと話すの嫌?」
「え?」
「今回からかわれたけど、おれはこれからもさんとしゃべりたいし、もっと仲良くしたい。さんが迷惑だって思ったことないし、さんにもそんなこと思ってほしくない」
「……」
「無茶苦茶言ってるけど、これからなんかあっても、おれがなんとかするから。さんに…話しかけてもいい?」
息つく間もなく日向君が早口で言いきった。真っ直ぐに、私を見て。
理解が追い付かず、しばらく言われた内容を咀嚼している最中のことだった。
「兄ちゃん、とおやつ食べてる」
「!夏」
「アタシも食べるー」
「食べていいから、この人はお姉ちゃんって呼べって!!」
さっきからどうして私の名前が出てくるんだろう。
日向君が私の疑問に気付いたのか、頭をかいて言った。
「さんのこと家で話してたら、勝手に名前で呼び出して」
「あ、ううん、別にいいよ。私もじゃあ夏ちゃんって呼んでいい?」
「いいよー」
「夏、こぼれるからちゃんとじっとして食えよっ」
妹さんがいると、日向君はいつもよりしっかりしているように見えた。
やっぱりお兄ちゃんなんだ。
3人でお話をしている内に日が落ちてきた。
「もうそろそろ帰らないと」
「送るよ」
「いいよ、バス停すぐだし」
「じゃあそこまで送るっ」
今にも私より先に飛び出していきそうな日向君に首を振った。
「日向君、大丈夫だから」
「、もう帰るの?」
「うん、夏ちゃんも早く風邪治してね」
「また来る?」
真っ直ぐに見つめられると、やっぱり日向君の妹さんだと実感した。
「……その内ね」
「約束だよ」
「うん、夏ちゃんももうお布団行くって約束だよ」
「んっ」
玄関に向かうと、日向君が靴を履いて外に出た。
これ以上断っても仕方ないので、ローファーに足を下ろした。
ちょうど一人の買い物袋を提げた女の人が来た。
どうやら日向君のお母さんらしい。
「翔陽の彼女!?」
「ちっちがうから!!ほら、さん行こう。これで夏も大丈夫だから」
「あ、あの留守中にお邪魔しました」
「いつもお菓子ありがとうね」
「あ、いえ」
「翔陽、すごく嬉しそうで…「さん遠いからもういいだろっ」
「翔陽ったら何張り切ってるんだか。また遊びに来てね」
「ありがとうございました」
頭を下げて先で待ってていてくれる日向君のところまで走った。
夕日が眩しくて、目を細める。叶うならずっと日向君を見ていたかった。
「ごめんね、家族うるさくて」
「そんなことないよ。楽しそうだった」
二人で並んで歩く。
違う場所を歩いていても、たまに二人で下校するときと変わらなかった。
「さんって家、どこだっけ?」
「あっちの烏野の方」
「すごく遠くない?」
「完全にあっちじゃなくて、そっちの方ってだけだから。住所は雪が丘だし」
「もしかして高校は烏野?」
なんでそんなに烏野に興味を持っているんだろう。
日向君は続けた。
「おれ、小さな巨人にあこがれてバレー始めたんだ」
日向君が語るバレーの試合、烏野高校のことは私もよく知っていた。
この辺でバレーといえば烏野は名前が知られていたし、バレーのこともそこそこ知っていた。
日向君がバレーに惹かれたきっかけが、小さな巨人だったんだ。
「日向君は烏野志望?」
「おうっ」
きらきらして、眩しい。
バレーのことになると、日向君は一層輝いて見える。
そして思い出す。
だから、日向君を応援したいって思ったんだ。
バス停が見えてきたとき、私は立ち止まった。
眩しくても日向君に視線を逸らさずに向ける。
「さん?」
「私、……が、話しかけると誰かにからかわれるかもしれないし、迷惑かけるかも」
声が震えている。
日が当たって目のクマが目立つかな。
緊張で胸がいっぱいだった。
「それでも、また日向君に話しかけていい?」
「いいよ!」
間髪入れずに日向君は言った。
「おれもさんと話したい。おれも、いいよね?」
今度は理解できた。日向君は、さっき私が答えていない質問の答えを待っていた。
「いいよ、……私も、日向君と話したい」
そう言い切ると、日向君が笑った。
「よかった」
何に対するよかったなのかわからないけれど、二人して笑みがこぼれた。
同じ気持ちだって思えて、昨日までの不安や悲しみは全部吹き飛んだ。
「あ、バス来てるよ」
日向君がバス停に留まる車を指さした。
それでも動こうとしなかった。数秒でも、このままでいたかった。
「いい、次のに乗る。この時間はすぐ来るから」
心が晴れやかで、今ならなんでもできそうな気がした。
「あ、日向君は帰っていいよ。送ってくれてありがとう」
「バス来るまで待つ、一緒に」
そう言って日向君はバス停で一緒にいてくれた。
明日のことやバレーのこと、水族館のことを話した。
バスに乗り込むのを見送ってくれた。
「また明日ね」
「おう、また明日!」
手を振りあって別れる今日が名残惜しい。話ができてよかった。
こちらの方面は混んでいなかったので、椅子に座った。膝に置いた鞄から携帯を取り出した。
『水族館、楽しみにしてる。』
たった一言、それだけを打って送信した。
『おれも楽しみ!!!』
すぐに返事が返ってきて、すかさずメールを保護した。
next.