ハニーチ

スロウ・エール 8



「仲直りできたんだ」


翌朝、昨日日向君の家に行くことになった経緯や、そこでわだかまりがなくなったことを友人に話した。
友人はよかったと付け加えて、紙パックのココアをまた一口飲み込んだ。
私もストローを唇に寄せて頷いた。


「ん、おかげさまで」

もよく行く気になったね。場所、全然違うじゃん」

「バスならすぐだし」

「そっから歩くじゃん」

「なっちゃん家と似た感じだったから迷わなかったよ、坂はかなりあったけど」

がここまで積極的になるなんてねー……」


友人に肩を小突かれた。


「なに、なっちゃん」

「顔にやけてる」

「え!」

「羨ましいわ」

「どこに羨む要素ある?」

見てると恋したくなる」


そう言って友人はストローに口を付けた。
同じようにココアを口にする。
ひんやりと冷えた甘さと香りに満たされた。


「そろそろ戻る?」

「確かにチャイム鳴るね」


自販機のところにかけてある時計を見て、二人してココアを持って教室を目指した。


「あ、おはようございます、夏目先輩、先輩」
「おはようございますっ」

「二人ともおはよう」
「おはよ」

「さっき先生に会って、今日部活に顔出すそうです」

「あ、そうなの、サンキュ」

友人が片手をあげて礼を述べた。同じ部活の一年生はちょうど登校してきたらしい。
私たちと同じ制服なのに、やっぱり幼さがある。
たった一年なのに去年の私たちもこんな風だったのかな。二年生の教室に向いながら思った。


「今日からエプロン作りに入るんだっけ?」

「そう、先に出来た人は商品作っていいよ。は人形でもなんでもお好きにどうぞ」

「私、ミシンは苦手だ」

「人形は得意でしょ? あ、もうT君のこと解決したから一心不乱に作らないか」

「!なっちゃん」


楽しそうに笑う友人と教室に入る。
自分の席を見やると、隣には私の好きな人の背中が見えた。
タイミングよく振り返るものだから、心臓が飛び跳ねた心地がする。


「おはよう、さん!」


この声を聞くと、安心した。


「日向君、おはよう」

「昨日はありがとう」

「ううん」


日向君がカバンから何かを取り出して、こちらに見えるように差し出した。


「これさ、さんの?」

「あ!」


見慣れた編みぐるみ、それは確か私が鞄につけていたものだ。
鞄を見ると昨日付けたはずの場所には何もぶら下がっていなかった。
頷いて、日向君の指につままれた編みぐるみが手のひらを受け取った。


「やっぱりさんのか、部屋に落ちてたから」

「ごめん、ありがとう」

「ううん。ちなみにさ、これってどこで買った? 妹が気に入って欲しがっててさ」

「あ、だったらこれあげるよ」

「え!」

「これ私が…」


ちょうど言いかけたところで先生が教室に入ってきた。
起立、礼、挨拶。いつもの流れのままに会話は中断した。

先生が日向君に気づいて少し声をかけて、教室全体の空気が賑わいを取り戻したように感じた。自然とこちらまで元気になれる。窓の外は快晴だった。
ホームルームを終えて、日向君が持ってきてくれた人形をそっと彼の机に置きなおした。


「これ、もらって」

さんのでしょ?」

「夏ちゃんに。これ、私が作ったの」

「!すげーっ、完璧売り物じゃんっ」

「ぜっ全然そんなことない」


「なに、編みぐるみあげたの?」

「夏目、見てこれ。さんが作ったんだって」

「知ってる。それ、文化祭用に部活で作る予定だから」

「そうなんだ、あれ、何部?」

「家庭科部。日向も入っていいよ」

「は、入らねーよっ」

はこういう細かい作業得意だからね」

「そうなんだ、すげー!」

「そんなことないから」

「こんなすごいのもらっていいの?」

「うん。あ、他の動物がいいなら選んでもいいよ」

「これがいい、すげー喜ぶと思う」


ここまで褒められると嬉しいな。

日向君はありがとうと繰り返して人形を鞄にしまってくれた。
私の机のそばに寄りかかる友人がにやにやと笑みを浮かべてこちらを見る。何が言いたいかすぐにわかって、余計なことは言わないようにと視線を送った。


さんってすげーな」

「なっちゃんだってこれくらい作れるよ」

「編み物は苦手だって」

「夏目は何が得意なの?」

「私はどっちかっていうとミシンで一気にやる派」

「へー!いろいろあんだなー」

「文化祭の時に展示もやるから日向もおいでよ」

「展示?」

「なっちゃん文化祭ずいぶん先だよ」

「夏休み明けたらすぐじゃん。他の部活も今から準備してるよ」


ちょうど教室に先生が入ってきて、友人も席に戻った。
隣の席を見ると、日向君も教科書やノートを鞄から引っ張り出している。
今の話を聞いても動じていないんだと一人安堵した。
もうすぐ夏休みが来たとして、他の部活はそれぞれ練習に追われるだろう。
去年はあまり意識しなかったけど、部活に入ってみて一人でやり続ける大変さが前よりリアルになった。

教科書を開いて、シャーペンをノックする。
夏休みが始まる前に、誰かバレー部に入ってくれたらいい。
日向君との距離が縮まるのは嬉しかったけど、それ以上に日向君がバレーをやれたらいいなと思った。

何か出来ることないかな。
ノートに黒板の内容を移しながら、考えた。
さっきは編みぐるみ一つで喜んでもらえたけど、妹さんのためだし。
どうせなら日向君自身のためになることがいい。そうなると、やっぱりバレー部のことに行きつく。

教室に置きっぱなしのボールを見た。
自分がトスをするところを想像してみた。


「……」


想像するより実行する方が難しい。
結局、トスができないかと考えて1限から4限を過ごして、昼休みにボールを借りて目立たない場所で挑戦してみた。
久しぶりのボールの感覚は、当然ながら思った通りには飛ばない。
真上にあげることすら以前より出来なくなっていた。
指先に触れる感覚はすでに懐かしいもので、今年のスポーツ大会はポートボールらしいから恥をかくことはなさそうだけど、日向君の練習に付き合うのは難しそうで残念だった。


「もーいっかい!!」


少し離れた場所で声が聞こえた。
そっと影から覗き込む。
日向君がいた。


「えーー、オレ自主練あるんだって」

「あといっかい!あといっかいでいいから」

「たくー……」


まさにトスの練習をしようとしていた日向君とクラスの男子の姿があった。

もし私が男の子だったら、一緒にやれたのかな。
その前にバレーする腕があればいいのかな。

ボールを掴む自分の指先を見る。その指はボールではなく、編み棒との付き合いに慣れ親しんでいた。


「もういっかい!」


日向君の声が聞こえる。チャイムが鳴るまでまだ時間はあったけれど、一足先に教室に向かった。
高く上がるボール、2年ずっと触らなければ身体はすぐに忘れてしまう。哀しさもなくはなかった。


さんってバレーに興味あるの?」


同じクラスのバレー部の子が嬉しそうに言われると、興味本位で話しかけたのが少し申し訳ない。


「いや、ちょっと聞いてみたかっただけ」

「2年からでも歓迎するよー、1年と同じで基礎練みっちりやってもらうけど」

「うっううん、どんなことしてるのかなーってだけだから」

「普通だよ、基礎練して個人練習して、たまに練習試合組んだり…そして大会っ」

「すごいね」

「すごくないよ、他の部も同じ」


彼女と話をしながら、そんな普通のことを日向君はできる環境にないんだなと思った。
私は望めばできるのに、そうしたいと思わない。
切実にバレーに焦がれている人がいるのに、出来る環境にない。
もしもう少し大人だったら引っ越すだとか転校するとか選択肢はあるのかな。でも、想像してみてもたかだかバレーをやりたい中学生に与えられる手段はたかがしれていた。


「ありがとね」

「ううん、興味持ったらいつでもどうぞ。練習相手も募集してまーす」


いかにも体育会系っていう人だけじゃなさそうだし、女子目当てじゃなくても練習相手として日向君が交ざるのも悪くない気がした。恥ずかしいのかな、恥ずかしいよな。
日向君のことを考えながら、廊下の窓から中庭を見下ろした。
ちょうど日向君が別の人を捕まえてスパイク練をしていた。


「あっ」


強い風で木々が揺れて、手元が狂ったボールが大きくそれる。
慣れないセッターのポジションでは仕方ない。
ちょうど小さな水たまりにボールが落ちていくだろうと思った。想像より現実が早かった。


「う、そ」


一瞬の出来事だった。瞬間移動に見えた。
日向君がボールを打った。さっきまで離れた場所にいたのに、息つく間があるだけだった。追いついたと意識する頃には日向君が放ったボールが壁に当たり、大きく宙に跳ね上げた。

どくん、どくんと心臓が動いているのを感じる。
トスを上げた男子は、スパイクを打った日向君が水たまりに濡れて騒ぐのに気が移ったようだけど、私は違った。
日向君の凄さで鳥肌が立った。


?」


今の声は友人だったかもしれない。
勢いよく廊下を駆けていって、何かせずにはいられなくて、教室に置きっぱなしのボールを一つ持って、どこでもいいから空きスペースを見つけてトスを上げた。
思い通りに上がらないボールがはがゆくて、何度も、何度もボールを指先で押し上げた。
汗がにじんで髪が肌に張り付く。
ジャンプする度に、力の流れが身体全身に伝わって行かないことを感じる。
スカートが乱れても構わなかった。
バレーを経験してきたからこそ分かる、自分の出来なさ。
ボールが宙に弧を描く。
そのボールを宙をかける日向君がスパイクを決める姿を想像した。
なんで、私、バレー、続けてこなかったんだろ。
なんで、私、男の子じゃないんだろ。
応援するって、何にも出来てないじゃん。


「はあ……」


呼吸が苦しくなってきて、トスをやめた。
受け取り手のいないボールは落ちて、しばらく跳ねてから動きを止めた。


「あれ、さん?」


振り返るとボールを持った日向君がいた。
駆け寄ってこられると、慌てて髪を手串で整えた。


「なにやってるの?」

「あ、ちょ、ちょっと…」

「ボール?誰か片付け忘れたのかな」


さっきまでトスの練習をしていたとは言えるはずもなく、日向君が拾い上げたボールに駆け寄った。


「ちょっと、私が使ってて」

「?ふーん……」

「もう戻ろう、次の授業始まっちゃう」

「おう」


二人でボールを持って廊下を歩いた。
鼓動が早いのは日向君といるからか、久しぶりのトス練習のせいか、それともさっきのスパイクを目撃したから自分でもわからない。
日向君がボールを軽く投げてはキャッチしながら言った。


「土曜、9時に駅前」

「え?」

「水族館、行こう」


笑顔を向けられると、単純に日向君でいっぱいになった。


「う、うん」

「よっし!」

「あ、でも、夏ちゃんは平気?」

「夏?風邪はもう大丈夫だし、家には母さんいるから」

「そっか」

「帽子かぶってきた方がいいかも」

「帽子?」

「前に家族で行ったら夏がすごく日に焼けてさ、母さんが帽子かぶらないからだーって怒って大変で。あの水族館、日差しがよく入るんだ」


水族館なんて最後に行ったのはいつだろう。こんなにわくわくするものだったかな。
日向君と話しながら教室に入ってボールを元の位置に戻した。
前にからかってきた男子数人が見えたけど、日向君は変わらぬ調子で話しかけてきてくれたから、私も気にしなかった。
大丈夫、日向君と話したい。


「きりーーつ」


席を立って、頭を下げる。
授業が始まるから会話は終わったけど、高揚感は消えない。

隣の席の日向君を盗み見た。
日向君のために、何かしたい。そう思ってシャーペンを握りしめた。



next.