ハニーチ

スロウ・エール 9


高く、丁寧に、敬意を持って差し出すように。

放課後、過去に言われたことを思い出しながら、何度も何度もボールを高く宙に放つ。
大人も子供も関係ないネットの前、また一歩踏み出す度にコートにいた時を思い出す。
あんなにも立つことが苦痛だった世界に自分からまた踏み込むことになるなんて、日向君を意識するまで夢にも思わなかった。
何かせずにいられなかった。頭にいつも日向君がいる。


「珍しいな」

「!おじいちゃん、ごめん、すぐどく」

「まだ子供達が来ていないなら構わんよ」

「あ……、ありがとう」

「それより、どういう風の吹き回しだ」


祖父が縁側から下りてきた。
私が放ったスパイカーのいないトスが落ちて、祖父まで転がっていく。
拾い上げられたボールをただ見つめながら、何と答えようか言い淀んだ。


「えっと……」


祖父は口を結んだままボールを私の方に放った。言葉の代わりにそのボールを受け取る。
何気ない風に祖父は続けた。


「トスだけか?」


まるで私の練習を見ていたかのような台詞だった。
祖父は叱る体ではないけれど、諭すように続けた。


「バレーは繋ぐスポーツだ。レシーブも怠るなよ」

「う、うん」


私は俯いて、飽きるほどバレーボールを触っていた頃を思い出す。
じんわりと汗がにじんで、身体の奥底に秘めた熱を感じた。


「こんばんはー」
「こんばんは」

「おう」


いつも庭のコートを借りに来る小学生たちの声で我に返った。
ボールを急いで片付ける。


「わ、私帰る」

「そうか」

「今日はありがとう」

「交ざってもいいぞ」

「へ!?」

「バレーは一人じゃできないだろ」


祖父の言葉に胸の内を見透かされた気がして、どきりと息を飲んだ。
バレーは、一人じゃできない。
当たり前で、至極単純なことだ。改めて自分以外の誰かに言われると、その当たり前の持つ無情さに胸が痛くなる心地がした。

祖父と皆の練習が始まる。
帰るきっかけを失った気がして、かといって小学生のみんなに交ざって練習することも気恥ずかしさが先だって出来ずに、縁側から皆を見つめていた。
トスを放つセッターの様子に自分を重ねてみたり、放たれたボールでスパイクを放つ瞬間を観察してみたり、どれも懐かしさを覚えるほど遠い記憶だ。
思い出は美化されるというけど、私の中のセピア色の世界を想うと言葉に言い表すには難しい感情が湧き起こる。記憶を塗り替えるように、放課後一人で練習する日向君を思い浮かべた。


「もう一回だ」


祖父の声がようやく暗くなってきた夜空に響いた。
スパイクが失敗したらしい。私の方まで転がってきたボールを縁側から降りて、拾い上げた。それを男の子の方へと投げる。


「ありがとー」

「どういたしまして」


息も上がってるだろうに、とても楽しそうに笑顔を浮かべる男の子に思わず顔がほころんだ。
しかしコーチたる祖父が声をかけると、途端に表情が引き締まるのだ。


「タイミングを合わせてボールを出す。そしてスパイカーは踏切が大事だ」

「はい」

「疲れても足は止めるな。あとはバネだ。前より跳べてるぞ」

「!ほんと?」

「ああ、だから次は向こうのコートにな」

「うんっ」


弧を描くボール、コートの向こうを目指して駆けだすスパイカー、セッターがボールを押し上げて、繋ぐ。
その一瞬一瞬が紡がれて、今度はコートの向こう側にボールが入った。

なぜか彼らの練習風景を見つめているのがつらくなって、荷物をまとめて立ち上がった。
祖父は私に気づかずに男の子たちに何か言っていた。今度はよかった。疲れている時こそ跳ぶんだ。そんな内容だった気がするのは、かつて私も声をかけられる側だったからだ。
すっかり忘れていた。忘れようとしていた。
土の匂いを落としきれていない手で、髪を払って帰路についた。


*


「水族館?」

「そ、そう。なっちゃんとか友達と行ってくるから」

「わかった、楽しんできなさい」

「あ、ありがと」


家に帰ってから今度の土曜に水族館に行くことを母親に話した。
別に反対されることはないけれど、女の子だけじゃないお出かけ(しかも学校行事ではないの)は初めてなので、何故か言葉にするのに緊張した。
やましいことなんてないのにな。
日向君に誘われたというだけで途端にすべてが特別になる。


「あ、それでね」


夕飯の手伝いをしながら、母の後ろ姿に話しかけた。
水族館に行く日は、お気に入りのワンピースが来たかったから。去年の誕生日に買ってもらったもので、大事にどこにしまったか自分で見つけられなかったから。
それに、日向君に言われたものも欲しい。


「ぼうし?なんでもいいの?」

「いいよ。あ、でも、あのワンピースに合うようにしたいな」

「そうねー……、だったら麦わら帽子にしたら?」

「麦わら帽子?」

「夏らしくて似合うんじゃない」


言われて、想像してみる。うん、悪くない。
気分よく夕飯を食べてすべて片付けてから、ワンピースと帽子を試着してみた。
自分で言うのもなんだけれど、我ながら可愛い。これなら日向君に見られてもいい。


「楽しそうね」


母親に言われて、慌てて表情に出ないように意識した。


「晴れるといいね」

「あ、天気予報、今やってる?」

「新聞の週間予報だと晴れみたいよ」


ほっと胸をなでおろす。
母親にてるてる坊主でも作ったらとからかわれて否定したものの、後で気になってしまい結局、小さなものながらてるてる坊主を作ってしまった。
なんだか最近自分がおかしい。今までこんなことしなかった。でも、これで晴れてくれる力がちょっとでも増えるかもと期待している自分が嫌いじゃない。

部屋に置いてあるカレンダーを見た。土曜には、特別な花まるを付けている。



*



「おはよう、さん!!」


土曜日、それはそれはとても暑くなりそうな快晴だった。
燦々と降り注ぐ太陽に負けないほど、日向君は眩しかった。


「お、おはよう」

「切符買った?」

「あ、私は定期これだから」

「そっか!おれ買ってくるからちょっと待ってて」

「うん」


日向君はいつも自転車通学だから、定期を買っていないのか。
行き先の運賃、わかっているかなと背後から覗き込むと、日向君は迷うこともなく料金ぴったりを入れて切符を買っていた。


「じゃあ、行こっか」

「え?」

「?どうかした」

「あ、いや、なっちゃんとか……他の皆来てないなって」

「他って?」

「え?」

「今日、おれとさんの二人だけど。他の誰か誘ったの?」

「わ、たしは誘ってないけど……」


あれ、なっちゃん言ってたよね、泉君から誘われたって。確かに金曜の部活の時も、今日の水族館のこと話してたよね。

今日、日向君と二人っきり?


「もしかして嫌?」

「えっ」

「おれと二人」

「え、う、ううん」

「よかった」


なんで、よかったなんだろ。私と二人でいいってこと?
日向君が電光板を指さした。


「もうすぐ来るから行こう」


頷いて改札を通った。
金曜の夜からドキドキしていたけど、今のこの高鳴りはまた違うものだと定期を鞄にしまいながら思った。

二人きりの水族館、今日はどんな一日になるんだろう。
電車を待ちわびながら、日向君の隣に立った。




next.