近づきたい。
近づかないで。
このままでいい。
このままでいたい。
このままじゃ、くるしい。
*
予定していたバスには間に合わなくて、バスは一本遅らせた。
待っている間も頭がくらくらしたのは、日向君の好意を振り払ってしまったからだろうか。
涼しい車内に一歩足を踏み入れると身体が冷やされて気分はましになった。
うんざりするほどまぶしい外の景色を眺めて、ついさっきの出来事に思考は向かった。
日向君は悪くない。
なんで、あんな態度取っちゃったんだろう。
「おい!」
ぼんやりとした思考に割って入ってきたのは、私が教えている生徒、じゃなくて、影山君の声だった。
とうにバスから降りて影山君の勉強を見ているんだった。
「聞いてんのか?」
「も、解けたんだ、すごいね」
「?……さっき、タイマーとめただろ」
指摘されて視線を落とすと、ストップウォッチのラップタイムは予定時間より3分以上も過ぎていた。
つまり、私は影山君に課した制限時間が過ぎてからもぼんやりしていたらしい。
自覚はあった。
日向君のことをずっと後悔していたから。
「大丈夫か?」
心配してくれているのかと思ったら、影山君の答えに丸を付けるはずの赤ペンがテーブルの方に盛大な丸を付けてしまっていたことに気づいた。
まったく大丈夫じゃない!
慌ててティッシュで拭いて、懸命にこすると、赤い丸は薄くなって最終的には消えた。
大丈夫じゃ、ない、全然。
これっぽっちも。
「このタイプの問題は解けるようになってきたね」
「ああ」
「烏野以外の志望校も解いてみてもいいんじゃ、「いい」
烏野高校以外、という言葉を口にしたものの、暗に青葉城西高校を想像したのだと気づいて、二の句を告げなかった。
私と影山君を繋いでくれた先生の言葉を思い出す。
『飛雄、他のやつと上手くいってないんじゃないかなー』
ちらと向かいの席に影山君を見る。
愛想笑いなど浮かべるわけもない彼があまり変化のない表情でこちらを見返してきた。
悩み事でもあるの?なんて軽く聞けるわけもなく出しゃばる気持ちもない(というか人の心配できるほど余裕もない)ので、烏野の過去問と似た基本問題のページを解くように指示を出した。
チームメイトと上手くいかないなんてよくあることだ。
距離が近いからこそぶつかりもする。
ピ、と、ストップウォッチのボタンを押した。
規則正しく切り替わる数字から周囲の風景に目を移すと、ちょうど小学生のバレーチームらしき子ども達が体育館に入っていった。
楽しそうにはしゃぐ子もいれば、列の中にいるけど輪に入っていない子もいる。
同じテーブルで勉強してたって相手の志望校すらわからない関係もある。
*
「」
やっぱり、慣れない。
影山君の声質なんだろうか。
ドスがきいているというか、逃げられない感じがして、呼ばれただけで肩に力が入ってしまう。
「な、なに?」
「時間あるか?」
「あるけど」
言った後、時間があるなんて言わなきゃよかったと思った。
「お前のトス、打たせろ」
この人はそれだけ言い放つと、さっきまで動きが鈍かったように見えたのに、筆記用具をあっという間に片づけてしまった。
こちらの教材は開いたまま、筆箱にシャーペンを消しゴムを入れようとして動けない。
トス?
今日はもう嫌だった。
「ま待って! なんで?私のトスなんて」
「今日来た時、なんでもするって言っただろ」
「言った、けど」
バスを一本遅らせてしまい待たせた罪悪感からそんなことを口走ってしまった記憶は、ある。
だからって、なんでトス?
将来の日本代表選手という人になんで今更私のトスなんて上げなければならないのか。
呼び留めようとしても影山君はこちらを無視してどんどんコートに向かっていってしまう。
落ち度が自分にないとは言い切れず無視するわけにもいかないので、大慌てで荷物をまとめて追いかけた。
「少しでいい」
それは日向君がトスのお願いをしている時を思い起こさせた。
でも、日向君なら私が断れば無理にトスを上げさせたりなんかしない。
「おい、聞いてんのか?」
「き、聞いてるけど」
「じゃあ、靴履き替えろ」
「持ってきてな、」
言い切るより前に貸し出し用の体育館履きが目の前に投げられた。
な、なんなの。
さっきまで教科書前にして唸ってたくせに。
急に水を得た魚のようにきりっとして素早くなって、ちょっと目を離したすきに動きやすそうな服に変わってるし、こっちは制服だっていうのに。
わたし、さっき、日向君にこのままでトスあげたんだ。
まだあの光景がちらつく。まぶしい視界の先に飛んだ、日向くんの姿。
「少しだけだからね」
突き指などしたくなくて準備運動を軽くしてから体育館に入ると、さっきのバレーチームの子たちが体育館の半分を使っていた。
今日は先生はいなくて、別のコーチの人が指導しているようだった。
影山君が話をつけているようで、私たちがもう半分を使ってもいいらしい。
バレーボールを手にした。
よく知った、少し忘れた、久しぶりの友人に会ったかのような、この感触は、体育館の空気の中ではまた格別だった。
チームメイトの声も聞こえてきそうだ。
「」
今は影山君が私を呼ぶ。
少しだけ、
少しだけだ。
体調の悪さを引きづっていたけど、今は、このコートのことだけに集中する。
ボールを相手へ、敬意を持って差し出すように。
「影山くんっ」
何度も上げたトス、
最初は気づかなかった。
ボールじゃない。
日向君と違う。
影山君が見ているのは、“私”だった。
ボールは影山君が外すことなく相手コートに打ち叩く。
けれど、眼差しは“私”だけに向けていた。
「おい、っ!」
集中力が切れるには十分だった。
元々体力だってない。家庭科部をなめないでほしい。もう限界だった。心も。
その場でしゃがみこんでしまった私に半ば怒っているような影山くんの様子が分かっていた。初めて会ったときもそうだけど、バレーに真摯じゃない相手に厳しいみたい。
今の私には彼に誇れるだけの敬意をバレーに向けられそうもなかった。
情けないけど、涙があふれてしまっていた。
「、どうし、!?」
どうしたんだ、って言おうとしたんだよね。わかってる。私も、どうしちゃったかわからない。
手の甲で、手のひらで涙をぬぐっても、後からあとから溢れてくる。止まらない。
言い訳しなくちゃ。言いつくろわなきゃ。もう半分のコートにいるバレーチームの子供達にも変に思われる。
なのに、動けない。
かろうじて声を出せた。
「なんで、
なんで、ボール」
もう言えなかった。
わかったからだ。言いたい相手は、影山君じゃない。
日向君だ。
どうして ボールだけ みているの。
影山君は私を見ていた。そっちの方がおかしいのに。
でも、理由はどうあれ、ボールを、バレーだけを追う日向君に悲しくなってしまったんだ。
気持ちがあの廃墟で質問した瞬間に戻ってしまう。
“ もし、明日で世界が終わるとしたら、日向君どうする? ”
“ おれはバレーする! ”
そうだよね、
そうなんだよ。
私が好きになった日向君は、“そういう”人だ。
わかってなかったのは、私の方だ。
いつの間にか調子に乗って、すごく、欲ばりになっていた。
もっと、私をみてほしい
バレーじゃなくて、私を
「!!」
急に頭にかぶさってきたものに驚くと、それがタオルだと触れてわかった。
厳しい顔のままの影山君、体育館の中の時計を顎で示して、勉強を教えてきた時と同じく3分どころか5分以上もしゃがみこんでしまったとわかって、慌てて立ち上がった。
よくわからないままそのタオルを顔に当てた。
周囲の様子を少しだけ伺うと、ちびっ子たちがこちらを見ていて私の視線に急に顔を背けたのが分かった。
今は羞恥心よりもまだあの日のことを引きづっていたことが判明して、謎が解けた妙な清々しさがあった。
体育館の重たい扉を出ると、他の団体の人たちがいて、顔を半分以上タオルで隠して影山君と並んだ。
「おい、アレ」
「コート上の王様じゃん!」
同じ年代らしいジャージを着た男子二人を影山君がにらんだ。
もともと愛想のない顔だったけど、もっと敵意むき出しで、率直に言えば怖い。
あの二人、かわいそうに。
申し訳ないけどフォローできそうもなく、力強く歩き出した影山君の背中について歩いた。
「こっこえぇ」
「なんでこんなとこに王様が」
「嫌われてんだろ、あの味方無視のトス」
それ以上は離れて耳に入ってこなかった。
どこまで影山君が歩いていくのかと思うと、自販機の前で、ピ、ピ、ガタンと決まり切った電子音を響かせて飲み物を買っていた。
のど乾いていたんだ。
「ほら」
渡されたスポーツ飲料水のペットボトル。
さっきのタオルのように反射的に受け取っていた。
もう一本、影山君は同じように購入してすぐにふたをあけて飲んでいた。飲んだのに、『濃い』と短く言って、近くのウォータークーラーで水を飲んでいた。
スポーツ選手には市販のスポーツドリンクは濃すぎるから薄めた方がいいんだっけ。
「影山君、あの」
「先生に言われた」
「え?なにを?」
「俺のトスに足りないものがにはあるって」
どこにそんな要素があるのか今すぐ先生に問いただしたかった。
「普通だったけどな」
「そりゃ、もう、いま、バレー部じゃないし」
先生が見ていた私は小学生の時点で止まっている。今の私のトスに見習うべき点があるとは思えない。
「なんでバレーやめた?」
いつも聞かれる問いかけ、同じことなのに、さっき泣いてしまったせいもあってか、それとも影山君だからか、気負わずに答えてしまっていた。
「スパイカーと、上手くいかなくなって、そのまま」
初めて他人に話してしまったと、はしゃいでいた子供たちが自販機前に来てからようやく気付いた。
next.