ハニーチ

スロウ・エール 75





「!!ま、また寝てた、おれ」

「う、ん」

「起こしてくれてありがと」


日向君は顔をはたいてから何事もなかったかのようにノートに向かった。
私の方は名前で呼ばれたついさっきが気になって仕方ない。


さん?」


今度はいつも通り呼ばれたのに、やっぱり大げさに反応してしまった。
日向君にはこの胸の内は気づかれていない。私のペン先が全然動かないから自分と同じで図書館の静けさで眠くなっていると思われたらしい。


「ないしょなんだけどさ」


何かカタッと音がすると思ったら、ミント味のタブレットのケースが日向君のポケットから見えた。
机の下だし、私たちの間から出されたケースは他の誰も気づかないだろう。
日向君がいたずらっぽく笑った。


「手、出して」


言われるがままに手のひらを向けると、小さな白いタブレットを2つ乗せてくれた。

図書室、飲食禁止だけど。
そう思って視線を上げると目が合って、日向君が自分の唇に人差し指を当てた。

なんで、秘密ってこうもドキドキするんだろう。
それとも、日向君とだからなのかな。考えても答えは出なくて、誰かに見られる前にすばやくミント味のそれを口に放った。
味わいは予想された刺激で、名前を呼ばれた事実から一瞬気をそらすことはできた。

日向君もタブレットをこっそりと口に運んだ。


「先生にもらったんだ」

「先生に?」

「うん、おれがすぐ寝るから最終手段やるって、講習の時に」

「すごく効きそう」

「一気に食べると効果なくなるって。さんも効いてきた?」

「え、うん」


頷きつつ、私はそこまで眠くなかったなとスースーする感覚を共有しながら思った。


「絶対、烏野入ってバレー! よしっ」


気合いを入れ直す日向君に、今更『』と言っていたことを蒸し返せる訳がなかった。

きっと私のことじゃないんだ。
名前で呼ばれたことないし、ずっとさんって呼ばれてるし。

あ……

妹さんは私のこと、って呼んでたな。


花火大会で夏ちゃんと会ったときのことが思い出されて、あの夜のことをまだ誰にも話せていない事実にまた思考が向かった。



「まだ眠いの?」


急に耳打ちされて我に返る。日向君の表情はさっきと打って変わってシャキッとしていた。


「うっううん! 大丈夫」


本当は、ぜんぜん大丈夫じゃない。

言葉とは裏腹にたしかに教科書もノートも同じページのままだった。
答えの続きを書き始めた。


「昨日、すぐ寝れた?」

「わりと、すぐだったかな」

「そっか」

「日向君は? 眠れなかった?」

「……」


日向君が少しだけ黙ったから、おしゃべりをやめて勉強に戻ったのかと思った。


「ね、寝たけど……うれしくて、けっこう起きてた」


“うれしくて”の部分は、私と同じなのかな。
聞きたくてもやっぱり聞けなくて、そっかと短く相槌を返すだけだった。

お互いノートに何かを綴る。
隣だからよく聞こえる。集中、集中しなくちゃ。




「夢じゃ、ないよね?」



それは日向君からの確認だった。



「おれだけじゃ」


 ないよね。



最後まで言葉にされなくても、最後まで届いた。

おんなじだったから。
私も、そう。



「ホントだよ」



昨日のこと、その前のことも、全部、現実の出来事だ。

昨日たしかに私たちは同じ気持ちだと確かめ合った。
夢みたいで、夢じゃない事実。



「そっか!」



日向君の声は途端に弾んで、その声量は少しだけ大きくて、日向君は慌てて自分の口を押えて、思わず視線を通わせて二人して笑った。

好きだと実感するには十分だった。















集中できたかはわからないけれど、チャイムが鳴ってそろそろ最終下校時刻が近くなる。
一時増えた図書室の人たちもすでに帰り支度を始めているようだった。

日向君もちょうど顔を上げたから、時計を指差して帰ることにした。

また1日が終わっちゃう。


「日向、なんでいんの?」


知らない男子数人がこちらのテーブルに近づいてきた。
話を聞くに、日向君が勉強しているのが珍しいらしい(わからなくもないんだけど)
日向君は顔が広いなと思いつつ、その間に帰り道に読めそうな文庫本を借りてくることにした。

私も私で友達に声をかけられる。

テストが近いから勉強していたの。日向君も勉強していた。
何で一緒にいたのか。
二人はバレー部だもんね。
そういう訳じゃないんだけど。

今までも何度もしてきた会話を重ねてから、日向君のいる場所に戻る。
男子たちと目が合った。
私、邪魔かな。


「帰ろう!」


日向君が何の気なしに声をかけてくる。

断るつもりはなかったけど、この勢いにいつも頷いてしまう。
今までだって何度もこんな場面があった。

日向君には日向君の世界があって、それは私も同じで、重なることもあるけど、もしバレーがなかったら今こうしていることはなかったような気がする。

鞄を持ち直した。下駄箱に向かった。


「あ、ごめんね」

「いやっ、ううん」


手がぶつかってしまって、少しだけ距離を置いた。


「あ、あのさあ!」

「なに?」

「あの……」


すぐそこが下駄箱なのに、日向君が立ち止まる。
蛍光灯が切れかかった廊下はチカチカと光で揺れていた。
日向君が俯いている。


「日向君?」


立ち止まった日向君に近づいて顔を覗き込もうとした。

その瞳に自分が映る。
途端、これ以上は近づいちゃいけないと予感した。


「な、なんでもないっ。なんでも」


日向君が顔を上げて笑った。
下駄箱に今度はずんずんと進んでいく。その背中に数歩遅れて付いていった。

今の、感じは、
なんでもなくなんか、ない。

なんとなく予想がついて、でも違うような気もして、それ以上はその感覚を追わなかった。


「早く帰れー」


先生が最終下校時刻だから見張り番なのか校門の前に立っていた。

本当は昨日みたく自転車置き場までついていってもよかったけど、日向君にはここで待っててと言われたので、これまで通り待っていることにした。
同じ夜なのに、同じに見えない。
夜空を見上げるとまだ夏とも思えるのに、薄暗くも感じた。


さんだー」


さっき図書館で会った友達に声をかけられる。


「何してんの? 一緒に帰ろうよ」

「あ、私、日向君待ってて」

「日向? ふーん……」


一瞬だけ滲んだ好奇の眼差しに表情を崩さないように意識した。



「お待たせ!!」


日向君がちょうど自転車を押して走ってきた。


「なにやってんの?」

「日向こそこんな時間まで何やってたの」

「勉強だけど」

「もうテスト勉強やってんの?日向なのに?」

「みんなおれを何だと思ってんだ!」


なんだか一緒に帰る流れになって、そのままバス停までついて日向君とは分かれた。

借りてきた文庫本を開いてみるけど、中身が頭に入ってこない。
用がある訳じゃないんだけど、もうちょっとだけ日向君と話したかった。

携帯を開いてみて、日向君にメールしようか考えている内に降りるバス停に到着した。


このやり場のない気持ちはどうしたらいいんだろう。
好きだってわかってうれしいのに、そこからどうしたらいいかわからない。

勉強するはずの机で、目についた漫画を開いた。告白しているシーンとその後の幸せそうなエピローグを読み返す。

両想い、からのめでたしめでたし、読んでる立場ならそれで楽しめるけど、今の自分のヒントにならない。
そもそもキャラ全然違う。
こんな、可愛くもない。

携帯が鳴った。



「もっもしもし」



画面に日向翔陽と出ていたから、なおのこと声が上ずった。


さん?』

「う、うん」

『もう家だよね?』

「そうだよ」

『窓の外、見れる?』

「外?」


日向君にそう言われて慌ててカーテンを開けた。

空、見える。

まさか日向君がいるのかと思って道路に自転車を探したけれど、もちろんいなかった。


「見たけど」

『月!! すごいなーって』



日向君が言う通り、確かに真ん丸の月が見えていた。



「す、すごい」

『すごいからさ、教えたくなった』



それだけ短く答えてくれると、途端に幸福感で肩の力が抜けた。



「あ、ありがと」

『ううん。 ……おれ、さ』



無言がしばらく続いた。

日向君はたぶんまだ外だ。そんな音がする。

静かすぎて、向こうの息遣いが電話越しでも伝わってきた


通話料は大丈夫かなと気にしつつ、待っていた方がいい気がして黙っていた。

日向君が続けた。



さんが、すきだよ』



携帯電話を両手で持ち直した。落とさないように。

知ってる。

昨日も聞かせてくれた。



『その、だから。

 こ、困ったときはさ、すぐ言って!』



急に早口になって理解がすぐできなかった。


「え、えっと?」

『こっ声、おれ、聞きたくて。すぐ電話しちゃったし、今日も、その、すぐ、一緒にいたくて声かけるし、帰る時も、また、手、繋ぎたくなって、おれ』



手がぶつかった時のことを思い出した。



『すごく、いますげー調子乗ってると思う。嫌に、なってない?』

「なってない。なってないよ」


なる訳がなかった。
そんなことで心変わりするわけがない。


『こういうこと聞くのもかっこわるいなって自分でも思うんだけど……さ』

「そんなことない」

『ほんと?』

「ほ、ほんと」


また少しだけ間が空いた。雑音も入ったから電波が悪いのかもしれない。

声がほんのちょっと遠くも感じた。

私が言葉に迷っていると、日向君の声が届いた。



『あふれて…… どうしたらいいかなって。気づいたら、もう、電話してた』

「うん」

『わかんないって言ったけど、この間わかって。
 わかったって話したけど、やっぱりこーいうの、どうしたらいいかわかんなくて。

 たださ、すごくすきだ って思ってる』


訳もなく口元を抑えていた。



『なんか叫んでもさ、こう、ぐわあーってなるだけで、さんに、もっと、その、いっぱいになったから、さん!!ってかけてた。本当、大丈夫だった? 今』


電話をかけてもよかったかという意味だと理解が追いついて、もちろん大丈夫だと念押しした。
ただ、その、すごく、すごいことを伝えてもらっていて、誰も見てるわけないのに、カーテンを半分だけ戻した。


『話してたら、もう……』

「ん?」

『その、明日、早く来いって思う』


それは、早く会いたいっていう意味だと思われて、一人深呼吸した。

今なら聞けるかな。
二人だけだから、この電話は日向君とだけ繋がってるから、前から聞きたかったことを、全部。

クラクションが聞こえた。


『あ、ごめん! もう帰んないと。また明日!』

「う、うん。また明日」


通話していた時間を確認し、日向翔陽という通話相手のディスプレイを一瞬眺めて、ほんの少しだけ熱を持った携帯電話を握りしめたまま、ベッドに倒れこんだ。


くらくらする。眩しい。熱い。


誰もいないのに枕を頭にかぶせて何かから隠れようとした。
でも、いっぱいだった。
どうしよう、日向君。




next.