ハニーチ

スロウ・エール 78





「あ、影山君」


お姉さんにもらったお茶を横に置いて問題を解いていたら、しばらくして影山君が戻ってきた。

ん?汗をかいている?

よくよく机に置いてある鞄を見ると、何かがごそっと抜けている様子が見てとれて、もしかしてバレーに必要なものだけは抜いてからこの場を立ち去ったんだろうことがわかった。

さっきの出来事があったのでどんな態度かなと気にしてみるものの、当の影山君は特に悪びれる様子もなく向かいの椅子に座った。


「なんだよ」

「いや、その、バレーしてきたのかなって」

「ああ」

「そう……」

「悪いのかよ」

「悪いなんて言ってないよ」


そうは言ってないけど、内心置き去りにされたことを恨んでなくもないので、笑顔にはなれなかった。
かといって影山君にぶつけるのもおかしい。


「勉強しよう」


自分に言い聞かせるように、かといって影山君には聞こえる程度の声量でつぶやいた。

テスト前なんだし、今日は元々そのためにここに来たんだ。
念のため周囲を見回して、また後輩二人が出てこないか警戒したけど、さすがにその気配はなかった。

影山君は動揺してない。
こんなこと、よくあるんだろうか。

そういえば、前にトスを上げた時に『なんでここに王様が』なんて言われていて、その人たちを影山君はにらんでたっけ。
自分が知らないうちに誰かを巻き込んでしまうタイプなんだろうか。

男の子同士の喧嘩みたいなのはやっぱり慣れない。

いや、“敵意”に慣れないんだ。
前に塾の自習室でアキちゃんと鉢合わせた時のことを思い出した。
私は別に、ケンカしたいわけじゃないのに。




「……なに?」

「ここ、教えてほしい」

「どこ?」


影山君の使っている問題集はたまたま同じものだったので、すぐに公式の載っているページを開いてみせた。

いつも通りだ。

さっきのことなんて影山君には影響しないんだろう。

当事者じゃない私の方がダメージを受けていて、なんだか悔しい。


「おい」

「なに?」

「すげー顔」

「はっ?」


つい変な声が出た。さすがの影山君もびくっと動揺したみたいだけど、とまらなかった。


「なにが?」

「いやっ、別に」

「別にじゃないじゃん。すごい顔って何。誰のせいなの」


後輩なのに、名前も知らないの?
なんで後輩のこと止めてくれなかったの?
先生が来たからって、私を置いていったの?

たくさん言いたいことがあふれて、でもそれを言ったら相手も困ることが分かってて、だったら、そんな『すごい顔』とか言わなくたっていいじゃんって。

見かけの事、言わなくてもいいじゃん。

私、そんな扱いされるの?


かなしさが胸いっぱいに詰まっているのがわかった。
涙は出ない。そういうんじゃない。
ただ、目の前にいるこの人に、まったく、なんにも伝わっていないことだけはわかって、かなしかった。

鏡を見なくてもわかる。

きっと、“すごい顔”してる。


「おっ、おい」


影山君が少しだけ動揺しててくれることに少しだけ安心した。

かまわずに机に腕を組んで顔をうずめた。


「ほっといてよ。眠たいの」

「……ほんとか?」

「ほ、ん、と」

「そ、……かよ」

「すごい顔で悪かったね」

「!!」

「そういうこと言わないほうがいいよ。余計なことだけど、さ」


目を閉じているから、影山君がどんな顔をして今のを聞いたかわからない。

言いたいこと、届いたのかな。理解できてるのかな。

顔を見れば伝わってくる程度の素直さを影山君は持っているけれど、今はそんな風に察する余裕がこっちにはない。

今日は朝が早かったから、本当にこのまま少し休みたかったのもある。


影山君、彼女いないよね、絶対。
こんなんじゃさ、彼女いたって怒らせるに決まってる。

不意に、自分の好きな人が頭に浮かんだ。
日向君ならどうかなって。

私の気持ち、わかってくれるかな。



「お、怒ってんのか」


思考を遮ったのは、影山君のやや低めの声だった。

なんでこっちが怒ってるとして、そんな喧嘩でも起こしそうな声色で聞いてくるのか。

少なからず顔を伏せた私を見て、動揺していることだけが救いだった。


「……だったら?」

「なっ、……んでもねーよ」

「そう」

「……」

「……」


影山君がノートに向かうのがわかった。机の振動で鉛筆がノートを滑っているのがわかる。
本当は私だって勉強しないと。

でも、意地で顔を上げたくない。

鉛筆がとまった。

影山君が立ち上がったのがわかった。
どこかに行ってしまったらしい。

ちらっと様子をうかがうと影山君の姿はない。

ノートも問題集も筆箱もそのままだった。

お手洗いかどっかに行ったのかな。

もういいや、気にしてる私の方が損だ。


「おい!!」


急に背後に立たれて何事かと思ったし、声も大きい。

影山飛雄くんだった。
何か、持ってる。


「ほら」

「な、なに」

「飲め」

「な、えっ」


ぐんぐん牛乳、と書かれたかわいらしいパッケージの牛乳パックが、ドン、と置かれた。


「な、なんでノートの上に置くかな」

「?」

「しわになっちゃうでしょ、ほら」


影山君はこちらの主張など興味なさげに同じ商品を手にしたまま椅子に座った。

私はもらった牛乳パックを脇に置いて、ノートの上の水分を軽くふき取る。
影山君が牛乳パックを見てからこっちを見て、早く飲めと言わんばかりの視線を送ってくるもんだから、苛立ちを覚えながら仕方なく牛乳を飲んだ。

もしかして、すごい顔してるから、カルシウムとれってことなんだろうか。


「影山君、これ」

「先生がくれた」

「あ、そ」


なんでここでまた先生が出てくるのかと思ったけど、たまたま鉢合わせしたのかもしれない。
先生もどうして牛乳をプレゼントしてくれたんだろ。

疑問はいくらでも浮かんだけど、ストローで二人で牛乳を飲んでいるのがなんだかシュールに思えて、イライラが若干だけど薄れた。牛乳ってすごい。


「悪かったな」


すごくドスの効いた謝罪だ。
ちらと顔を向けると、とてつもなく怖い顔をしてて、牛乳を少しだけ拭きこぼしてしまった。


「な、なんで、そんなすごい顔して言うの。怖いってば」

「あ?」

「あ、じゃなくて! もっと笑っていいなよ、それか申し訳なさそうに」

「申し訳、ない??」

「もーーー、こういうのっ」


ノートになんで困り顔を書いているんだろう。
影山君はそれを確認して、その顔をやってみせてくれたが、そっちの方がよっぽど“すごい顔”だった。

もう、めんどくさくなってノートを破いてぐしゃぐしゃにした。


「勉強が全然進んでない」

「そうだな」

「学校のテストくらいちゃんとできれば烏野は受かるよ」

「そうかよ」

「そうなの! やろっ」


自分で言いながら集中できていない。
それでも手は動かした。四字熟語くらいなら集中してなくても手を動かせば何とかなる。

何度も同じ漢字を書きながら、続けた。


「さっきの人たちさ。名前知らなかったみたいだけど、影山君と同じバレー部だって。

 今度さ、もし今日みたいなことがあったら」

「ねーよ」


今度も相変わらず愛想のない声色で影山君は言った。


「もうに手を出させない。今日は悪かった」


影山君が牛乳をまた口にして、同じトーンで『この問題がわからない』と続けた。
気持ちが切り替わらない私の方が困惑しつつ、同じように影山君が分かるように問題を解いてみせた。


「わかった?」

「おう」

「じゃ、次の問題も同じだからやってみて」

「ん」


悪かった、という自覚はあったんだろうか。

急に影山君に対して踏み込みすぎてしまった気もして、自分自身がどうしたかったのかわからなくなった。
別に、後輩君たちとの関係を良好にしてあげたかったわけじゃないし、巻き込まれなくて済むならそれでいいんだけど、なんだろう。


「なあ」


また同じ調子で影山君は言った。


「スパイカーと上手くいかなくなったって言ってたけど」


それは、頼まれてあげたトスの時の事、日向君のことがあってみっともなく泣いてしまった時のことだ。
まさかその話題が影山君から耳にするとは思わなかった。

続きを待ちつつ、影山君と同じように手は動かし続けた。


「いや、いい。忘れろ」


なんだか弱みをお互いに見せてしまったような日だ。

お互いにお互いを気にしている気もして、かといって言葉にできない中途半端な何かがあった。
テーブルの下で、足先がぶつかり合った時、その何とも言えない遠慮があらわになった気もした。


「あ、帰りのチャイム」


聞きなれたこの音に、この施設もそろそろ閉まることがわかって、今日の勉強会をお開きにした。

この集まり、もうやらなくていいかな。
そう思っていたけど、去り際、影山君に呼び留められて、次はいつやるか聞かれた。


「同じ時間でいいか?」

「わ、たしはいいけど、そっちは?」

「それでいい」

「そ、う」

「またな、

「うん、……またね」


次があるのは、影山君にとって少しは役立っているということなんだろう。
なんともわかりづらい。
もっとわかりやすく嬉しがってくれたらいいのに。

影山君もチームメイトと上手くいっていないと先生が言っていたことを思い出す。
私と同じ話じゃないのは重々分かっていたけど、なぜか知りたくなって、結局、影山君の出ていた試合のDVDを先生から受け取ってから帰った。




next.